ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(173)

 家人の話によると、イタリア戦線から復員後、戦争の話をすると、ネルボーゾになり、肌に白い斑が点々と浮いた。医者の指示で、戦争の話はしないようにし、本人も忘れるべく努めてきたのだそうだ。
 筆者は止むを得ず「何でもよいから覚えていることを話してくれ」と頼んだ。
 すると、
「生まれは一九二一年、インダイアツーバ。小学校もロクに行かず、七、八歳頃から牛追いをした…」
と語り始めた。
 インダイアツーバはサンパウロの北西約百㌔の処に在る工業都市である。当時は農村であった。 
 以下は、彼の口から出た断片的な言葉を繋ぎ合わせたものである。
 「一九四二年に召集された。新聞に何年生まれの者は来い、と通知が出たので、行ったら、兵隊にとられた。
一九四四年、出征が決まった。日本に行かされるのではないか、とビクビクしていた。が、送られた先はイタリアだった。ホッとした。
 何度も実戦を経験した。何回か覚えていない。
 雪の中で戦ったことがある。ドイツ兵が白装束でやって来た。だから、よく見えない。が、人の気配を感じた。誰か!と、三度叫んで、返事がないので撃った。
 近づくと、その弾がドイツ兵の背中に当っていた。死んでいた。
 敵が機関銃を撃った。物凄い金属音が響いた。地面に寝る(伏す)と直ぐ上を弾が…。
 弾が、自分の兜に当たったこともあるが、怪我はしなかった。
 ドイツが負けたので、日本も危ないと思っていた。
 現在、国籍はブラジルだが、気持ちは日本人だ」
 ハウー老もそうだったが、この人も、話の内容に怨念や湿気がなかった。
 難しく考えたことは何もなかったようだ。 
 「偶々、ブラジルで生活していて、国籍も貰っており、義務もあったから応召、戦場に行っただけのこと」
という調子だった。 
 それ以外の、例えば二つの祖国の狭間で苦しんだといった風なインテリや小説家の喜びそうな言葉は漏れなかった。  
 が、実はその種のことに関しては、色々な話がある。
 馬場本には要旨「イタリア戦線に出征した日系兵士の中には、復員してきたら、家族が敵性国人として警察から不当な迫害を受けていた者もいた。中には投獄(留・拘置)された事例も…」という記述がある。
 半田日誌(一九四二年一月十一日)にも、次の様な話が出てくる。
 あるブラジル生まれの日系の若者(医師)が戦時中、
「これまで、自分はブラジル人である、と主張してきたが、ブラジル人の方が、私を日本人としか見ない。私はブラジル人だと主張すると、向こうは自分の顔を見ろと答える」
と悔しがっていた。
 この若者はブラジル軍の軍医となることを望んでいたが、なかなか、それが受け入れられずにいたのである。
 後に念願かなって、イタリア戦線に出征している。
 また馬場本は、その前文で、こう記している。 
 「…(略)…一連の排日運動である日本移民制限法案、日本語教育規制法という事実上の禁止等々を前にして、生国ブラジルが祖国であり、ふるさとであると意識づけること自体が偽善であり自縛行為ですらあった…(略)…」
 つまり、ブラジル生まれであっても、ブラジル人意識は持てなかったということである。代わりに抱いたのが、日本人意識である。
 ところが、日本では「ブラジル国籍を持つ者に対する警察や憲兵の警戒、白眼視があった」と馬場は記す。
 二重国籍者は憲兵に監視され、南桜会の通信も検閲された。スマトラでも日本軍の憲兵に監視された。
 終戦後は、日本政府が一九五一(昭26)年、すべての二重国籍者に、日本国籍からの離脱を勧告したという。
 馬場は、堪えがたい思いを断ち切って、日本国籍を返上した。その書類にハンコをついた後、宮城前に直行、
「陛下、ただいま、日本国籍を返上しました。しかし、日本人であることに相違ありません」 
と報告した。 
 同じく日本国籍を返上した平田進は、
「われわれには、祖国が一つもないね」
と何度も言っていたそうである。

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