在住者レポート=アルゼンチンは今(24)=マテ茶のぬくもりとともに=ホセ・ムヒカ氏、静かなる旅立ち=ブエノスアイレス 相川知子

 ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が2025年5月13日、モンテビデオ市郊外の自宅にて息を引き取った。89歳だった。数年前より食道がんを患い、今年1月には肝臓への転移が明らかにされていた。死期を前に「戦士には休む権利がある」と語った言葉通り、静かな最期であった。

世界に響いた〝哲学する大統領〟の言葉

 ムヒカ氏の大統領就任は2010年であるが国際的に注目を集めたのは、2012年の国連「リオ+20」会議における演説。物質的豊かさに偏重する現代社会に警鐘を鳴らし、「自由とは、持たなくて済むこと」と語るその姿に使い古した背広にサンダル履きといういでたち、各国メディアで紹介され、特にBBCにて「世界で最も貧しい大統領」として紹介された。
 飾らぬ言葉と人生を大事にし自然を育むことを推奨する視点が、多くの国々で共感を呼び、演説は多言語に翻訳され日本でも広く知られ絵本まで出版された。

専用機なき質素な国家元首

 私がムヒカ大統領を知ったのは一国の大統領にもかかわらず専用機を持たず、隣国アルゼンチンの大統領機に同乗して帰ってきたというニュースを聞いたことである。人口300万人の小さい国庫を守るには効率がいいと思わずにはいられなかった。
 その印象どおり、その質素な政治姿勢は終始一貫していた。貧しい人の立場に立つ事業を行い、給与のほとんどを寄付し、国家元首でありながら、官邸には移らず、避暑にも行かず、就任前と同じように農場の家で暮らした。就任後、引退後もかわらなかった。

日本との縁とユーモア

ウルグアイのテレビteledoceから日本のテレビがムヒカを追いかけると逆取材され記事になる(https://www.teledoce.com/telemundo/nacionales/un-equipo-de-la-tv-japonesa-sigue-a-mujica-por-todos-lados/)

 ムヒカ氏に初めてお会いしたのは2015年、大統領職が終わる2月のこと、日本のテレビ番組で、「ヒッチハイクをしていたら止まってくれた車はムヒカ夫妻であった」というウルグアイ人工場労働者の話をきっかけに、最後の活動をカメラに収めるためであった。「プランフントス」という、貧しい人への住宅をただ分譲するのではなく、自分達で建築を行うという社会福祉プログラムを視察したあと、車に乗る前に呼びかけたら振り向いて止まって一言いただけたのだった。
 実はその前にディレクター兼レポーターにスペイン語で自己紹介を教えてあった。だから、「Soy japonés, director de televisión japonesa…」(私は日本人です。日本のテレビ局のディレクターで…)と言ったら、すかさず「それ(日本人であること)は見たら分かるよ」と笑い出してくれた。
 日本でホセ・ムヒカ氏が知られるようになったきっかけの一つに、リオでの演説に関する発言をまとめた子どものための絵本がありますが-というと、「不思議なことにその本は日本にあるけど、ウルグアイでは誰も知らない」と首を傾げるように言った。
 さらに、続けてムヒカ大統領は貴重なエピソードを披露してくれた。「日系の子どもが、サッカーの試合中にケガをして交代させられたときに泣いているのを見た。でも、その子が泣いていたのはケガのせいではなく、交代させられたことが悔しかったからだ。彼らは非常に名誉を重んじる人たちだと思ったね」と。

質素な暮らしの哲学

 その後、全国農業協同組合連合会(JA)の雑誌『家の光』2015年12月号で取材に応じてくださった。

家の光の記事は12ページにもわたる。この記事は2016年IFJ・JAPAN日本賞を受賞した。外国をテーマにした日本人ジャーナリストの日本語の記事で直接多忙なムヒカ元大統領への単独インタビュー記事が評価された

 そのとき、最後に日本人へのことばを贈ってくれた。「今の日本人は、急いで暮らしているようだね。いっしょに話をする時間がないらしい。いつか墓に行くのは同じことなのだから、そんなに急ぐ必要はないよ。幸せとは、自由なことをする時間があることだ。それがなければ、幸せではない。自分が好きなことをできる時間を持つことだ。
 もちろん働くことも重要だ。だれかのために、なにかのために。しかし、それにとらわれて、幸せになることを忘れてはいけない。幸せが少ないところでも、見つけなければならない。わたしが入っていた牢獄には、カエルが7匹いた。コップの水をやったら、それで水浴びしていたよ。かわいかったね。生き物を見て、喜びを感じることができた」

A JAPON(ア・ハポン、日本の皆さんへ)と雑誌にサインもしてもらった

 ムヒカ氏は、大統領時代もその後も、自分の農園を毎日数時間耕したり収穫したりする生活を続けていた。「自然は開かれた本だ。苦しみも失敗も、大地がすべてを教えてくれる」
 ムヒカ氏は自らを「百姓」と称し、35ヘクタールの農地で花や野菜を育てる日々を何よりの喜びとしていた。家政婦を雇うこともなく、妻と後に死んでしまったが足が不自由なマヌエラという犬と「三人暮らし」であった。
 再利用素材のカラフルベンチに来客を招き、屋外で語ることを好んだ。

そのカラフルなベンチに座ってインタビューを行った(撮影ファニプロラテンアメリカ 提供「家の光」)

 「自由とは、自分の時間を自分で使えること。そのために不要なものは持たない」そして、穏やかに「世界一貧しい大統領」の名について笑った。
 「私は貧しいのではない。本当に貧しいのは、常に〝足りない〟と感じてしまう人たちだ」――
 その言葉には、15年間の獄中生活と革命運動での苦難が深く影を落としている。
 「監獄よりマシさ」が口癖だったムヒカ氏にとって、謙虚な生活は誇りであり、政治信条でもあった。

世界にまいた「考える種」

 リオ会議のスピーチについて聞いたら、「原稿を作ったのではなく、いつも思っていることを話したまでだ」と教えてくれた。そして実は「私の言葉で世界が変わるとは思っていない。ただ、考える〝種〟をまきたかったんだ」という。その種は今も、世界中の人々の心に静かに根を張って、引用が繰り返されている。

ムヒカ語録は、このように冷蔵庫につけるマグネットとしてウルグアイでよく売っている

投資をしよう。
第一に教育に
第二に教育に
第三に教育に、
教育がある国民は人生でよりよい選択ができる。
そして汚職や嘘を付く人たちにだまされにくくなる。

「マテ茶でわかる、心の距離」

 取材中は、静かで穏やかな時間が流れていた。夕方少し肌寒くなった。うちに招かれたが、ほんとうに小さな家で、玄関を入ってすぐの居間兼書斎があり、一メートルほど行くと奥に食堂兼台所がある。一方、居間の奥を右手に入ると、夫妻の寝室がある。つまり、この三つしか部屋がないのだ。
 ムヒカ氏はマテ茶を淹れてくれた。使い古されたヤカンで沸かした湯と、ウルグアイらしい革張りの大きなマテ(マテ茶を飲む容器)であった。それを受け取ったとき、手のひらに伝わる温もりに、彼の人間性がにじんでいた。マテ茶を静かに飲んで非常に豊かな時間を過ごした。

広島の帽子をお土産に持っていたので渡したらすぐかぶってくれた

広島へのメッセージ

 広島の帽子をお土産に持っていたので渡したらすぐかぶってくれた。いつか行きたいものだと言ってくださった。そして広島での、人類による過ちを理解してくれていた。これは雑誌の記事のスペースの都合上入らなかった会話である。

ム「一番重要なことはね、人生には。転ぶことだ。なんどでも転ぶ」
私「まるで日本の七転び八起と言いますが・・・」
ム「そうだ、日本人はよくわかっている。また始めなければならないんだよ。それが大事だ。アリだって、まじめに働いている。毛虫だって自分の仕事をしている。アリはすごいよね。私たちが生きる前からいて、私たちが死んでも生き続けるよ。すごい生き物だ。偉大だ。核実験や戦争をする人がいるよね。そんなことをしていては居られないのに。
 広島のこともあったのに、人類はまだ学んでいない。歴史は変わっていく。でもね、人々は変わらない。昆虫はそれでも生き続けるだろう。歴史はどんどん進んでいく。歴史は繰り返す」
私「歴史から学ばなくちゃいけませんよね」
ム「うーん、でも、私たちは賢いが、そんなにすごくない。すごく信じられないことだがね。
 それが人間の一部なのだ。だからおもしろいよ。人間だけだよね。同じところで同じ石になんどもつまずくのはね」
 別の機会に平和の折り鶴を渡した。その瞬間、遠い場所を見ているようだった。

ホセ・ムヒカの魅力は表裏がない一貫性

 通訳という仕事柄、いつもいろいろな方々にお会いする。そして本当にいろいろな人であるが、実際は、オンとオフで全く変わらない人はなかなかいない。「もうカメラ回っていません」と言うと、その後は、少し変わるのが普通だ。だが、ムヒカ氏へはずっとカメラを回しておきたいぐらいの人だった。そしてムヒカ氏のやることは一貫性があり、またみんながいる、いないで表裏と変わることもなかった。
 座右の銘のように心がけているのは 次の言葉であった。
VIVE COMO PIENSAS, PORQUE SINO PENSARAS COMO VIVIS
「考えるように生きよ。そうではなければ、生きているように考えてしまう」
 だからこそ、思うように生きろ、そうじゃないと自分が思い、考えることに支配されて自由がきかないということだろう。

神棚のように農場でホセ・ムヒカ氏と妻のルシア氏が座っている写真が飾ってある

 「プラン・フントス」(一緒に建てようプラン)というムヒカ氏が始めた、住居をもらう本人もある一定の作業奉仕をしなければならないという条件で建設し、住居が与えられる社会福祉プランは、よくあるラテンアメリカの政治家が票を入れてくれるのなら支援をあげますよ、というバラマキ政治ではない。社会のために人々のためにという公約をしながら税金を懐に入れて高級車を乗り回すのではない。
 どのプランフントスの家を訪ねても、神棚のように農場でホセ・ムヒカ氏と妻のルシア氏が座っている写真が飾ってあるが、しがらみでそうしているのではない。その愛称の「ペペ」と呼び、本当に慕っているからだ。
 惜しまれながらも政界からは退き、病院で治療するよりも家にいることを望んだ。最後まで「ムヒカらしさ」を貫いたその姿が、多くの人の記憶に残り続けるだろう。

偶然か必然か

 実は去る5月10日、ムヒカ氏の訃報が伝えられる直前、筆者は日本からの友人を案内してモンテビデオを訪れていた。観光ルートにプンタ・カレタ・ショッピングセンターを入れたのは、かつて刑務所だった建物が1994年に修復されてそのまま使われ、若き日のムヒカ氏がゲリラ活動を繰り返していたので収容されていた場所であったからだ。

 その後、世界遺産の街コロニアへ向かう途中の国道1号線で、「この角を曲がるとムヒカ氏の農園があり、左手のポールには、ムヒカと妻ルシアの名が書かれた政治スローガンが今も残っている」と案内した。ルシア氏は元副大統領であり、活動家時代にムヒカ氏と出会い、それから公私ともに同志となった人物だ。
 しかし、水道タンクは反対側で見えにくいのに、まるで偶然が導いたかのように写真に収めることができた。まるで「ペペ」が「またな」と挨拶をしてくれたかのようだった。
(5月20日記 存命ならムヒカ氏90歳の誕生日に寄せて 相川知子)

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