4月4日~7日の日程で、ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、谷口ジョゼ眞一郎会長)主催「第56回移民のふるさと巡り」で、サンタカタリーナ州を訪れた。2日~9日のコースも用意されているが、短い日程の第一グループに同行取材した。サンタカタリーナ州はブラジル南部3州の一つ。他4地域に比べて南部は一番面積が小さく全土の7%しかなく、人口も14%だが、2番目に大きい国内総生産GDP(PIB、Produto Interno Bruto)を誇る。しかも、その高いGDPに日本移民が関係しているそうで、今回の旅ではその移民のレジェンドに会えるのを楽しみに空港まで向かった。(麻生公子記者)
グアルーリョス空港で集合、飛行機でシャペコ空港へ。シャペコといえば2016年、プロサッカーチーム「シャペコエンセ」選手らを乗せてコロンビアに向かう飛行機が墜落、大多数の選手を失ったことで一躍世界中にその地名が知れ渡った。事故はシャペコから旅立った飛行機で、我々はシャペコ行きの飛行機だったが無事着陸できた時は機内で拍手が起こった。
空港で大型バスに乗り換えたが、バスの外装に思わず目を奪われた。白い雪を冠した山々をバックにした金髪の白人女性が大きくプリントされていたのだ。南部の特徴として欧州諸国の人によって開拓が進められたため、イタリア、ドイツ系ほかの白人が多く住み、欧州文化が色濃く残っている。後から合流した2台のバスにも別の金髪の白人女性がプリントされていた。
9時半頃バスで出発、約1時間の昼食休憩をはさみ、16時過ぎにやっと着いたのが、フレイ・ロジェリオ市のラーモス移住地。ここで長期日程のコース参加者と合流し、総勢97人が集まった。
バスを降りると小高い丘の上に、尖った塔が見え、バスから降りた参加者たちは、助け合いながら丘を登っていく。ここが平和の鐘公園(Parque Sino da Paz)だ。尖った物体は平和のモニュメントで、平和の象徴としての鶴をモチーフにして作られたのだという。
そのモニュメントに書かれている「平和」という漢字と「Paz」というポ語を背景に吊り下げられているのが、「平和の鐘」。長崎の原爆で破壊されたお寺から三つの鐘が見つかり、そのうちの一つがこの鐘だ。あとは長崎市に、もう一つはニューヨーク国連本部にあるという。
長崎被爆者でラーモスの第一陣入植者、故・小川和己さんの元に1998年に届けられ、彼の尽力の元、彼の農場敷地内に平和の鐘公園とこのモニュメントが2002年に竣工した。同じくラーモス第一陣移住者で長崎県出身、95歳の小川渡さんが車椅子に乗り、息子のなおきさん(54歳)、孫のひらかずアルツールさん(23歳)と共に出迎えてくれた。入植当時は7人の被爆者が住んでいたそうだが、「今はもう私一人になってしまった。私も被爆者として学校に出向いて行って子ども達に話したことがあるけど、平和じゃないといかん、平和、Paz Paz、Paz」と力強く話してくれた。
16歳の時に広島に兵士として招集され、6日に宮島で広島原爆を見、長崎に戻って9日、原爆の灰を吸って被爆したそう。渡さんが鐘をつくと参加者全員1分間黙とうを捧げ、県連谷口ジョゼ会長と長崎と広島からの参加者も鐘をついた。
両親が長崎県出身の城代清志さん(81歳)は「(鐘をついて)震えましたね。いろんなことを思い出して。家族が1934年にりおでじゃねいろ丸でブラジルに来て、私は1944年戦争中に生まれました。ずっと働いて小学校しか行けなくて、通信教育で勉強しました。この平和の鐘公園に来たくて今回このふるさと巡りに参加しました。兄も来たがっていたのだけど昨年亡くなりました」と参加した思いを話した。
後日、編集部にふるさと巡りの参加者の一人、多田邦治さん(徳島県)が、この時の情景を短歌に読んでくれたものを寄稿してくれたので紹介する。
飛翔する かたちの鶴に いだかれし 長崎の鐘 いま鳴りわたる。