
サンジョアキンのホテルで朝食をとるためにホテル最上階にあるレストランへ向かうと、そこからは街を360度見渡すことができた。ツアー参加者の方々も、素晴らしい景色だね、と言いながらベランダに出て写真を撮っていた。
朝食後、平上りんご農園に出発。バスの中からずっと続くりんごの樹にまずは驚いた。ここは標高1400メートルの高地に位置し、年平均気温は13・5度。冬には雪が降ることもある、ブラジルで最も寒い都市だ。この気候だから、美味しいりんごが生産できるそうだ。
現地には、平上文雄さん(76歳、和歌山県出身)と妻の静子さんが待っていてくれた。文雄さんは、先に来ていた叔父を頼りにブラジルに母、兄、妹と移住。その後マイリンケにいた時に、3世の静子さんと出会い結婚。1973年にコチア産業組合がサンジョアキンでりんご栽培を始めることになり、第一陣入植者として15家族とともに入った。
「ずいぶん前に日本のテレビにね、りんごの樹を200ヘクタールも植えた日本人なんていないよ、って紹介されてね。その後、りんご指導をしてくれたJICAの先生たちが自分たちが行った村がこんなに有名になった、ありがとう、とお祝いの言葉をもらってね。先生たちが教えてくれたおかげでこんなにフジで成功できた」と笑いを交えながら拡声器を手に、弾丸トークがとまらない。

りんごは、はじめはひと区画に700本だったそうだが、現在では2400本と狭く植えて「すごいトン数が採れる」そうだ。イスラエル式の水やり装置を採用していて、りんごの樹の下のほうにマンゲイラ(管)が渡してあり、「センサーがあって湿気が足りなくなると、モーターがオートマチコにリガして(自動的に動いて)ぽたぽた落ちるから、人がやらんでもよい。上からかけると蒸発しちゃうし、消毒も流して水がもったいない」とどんどん改良して新しい技術などを取り入れている。
「マイリンキでモモ作っていればいい、よくばってサンタカタリーナなんか行くな」と言われたこともあったそうで、「だから余計なにくそって頑張った。なにくそっていうのはやり上げるっていう意味だと柔道で教わった」と、苦労してきたときの原動力を明るく話す。
「コチアがなかったら自分は来られなかった。ここに来た時は、電気も水もなかった。家もバラックだった。妻は妊娠していた時に辛抱してくれた。70歳過ぎて、ありがとうって言えるようになった。それまでは照れくさくて言えなかった」と端々に色々な方への感謝の言葉が並ぶ。
来伯当時は、りんごを作るなんて思ってもいなかったそうだが、なんと今ではブドウも作り始めた。「ここは高地でいいブドウができる。ブドウを作ったら美味しいワインを作ってあげるよ、と誘われて作り出して、25年間そこでワインを作っている。コンクールに出すと、あちこちで賞を獲るんだよね。ブドウがいいからいいワインが勝手にできる」と進化が止まらない。今では7ヘクタール、約3万5千から4万本のワインができるブドウを生産しているそうだ。
奥さんの静子さんは落ち着く暇もないだろうとお話を伺ってみると、「ここに来た時のことを思ったらぞっとする。寒いのが一番大変ね。当時は今よりもっと寒かった。あの頃は雪が降って真っ白になった、今はちょっとだけどね。電気も水ない、水は井戸で汲んだ。お風呂は持ってきたからよかった。ガスでお湯を沸かしたのね。今みたいにAgua Quente(お湯)なんて出ないでしょ。そんな中、4人子どもを育てた。みんな独立して、息子が戻ってきてくれて、多分後を継いでくれると思う。それが今一番の心配事」と、文雄さんを支えてきた苦労を静かな口調で話してくれた。「こんなに成功するなんて、あの頃は思ってもみなかったね。ずっと仕事ばっかりだったから、これからは、二人ともViagem(旅行)好きなので、一緒に行こうって言ってます」。

それを隣で聞いていた、静子さんと一緒に日本に行ったこともあるツアー参加者の石井和江さん(2世、85歳)は「私も4人育てたけど、仕事しながらね、もうどうやって育てたのか覚えてないよ。子どもたちも、お母さんどうやって(そんな環境で)私たちを育てたのって。つわりも何も知らない。そんなこと思ってる暇もない。一日も寝込んだことないよ。Minha Vida(私の人生)、おかげさまで長生きしてよかった、と思う。こうして遊んで歩いて、旅行大好きだからね。また一緒に行きましょう」と移民妻の苦労を分かち合った。(麻生公子記者、つづく)