
ふるさと巡り2日目、前日遅かったにもかかわらず、参加者は6時半には朝食会場に集まって7時には食事を済ませていた。皆さん、朝が早い。8時半にホテルをチェックアウトし、再びバスに2時間ほど乗ってラジェス市へ。抜けるような青空で、南部の冬とは思えないほど暖かく、汗ばむ陽気だ。
今日は、パラナ松の実、ピニョンの収穫祭ということで、ラジェスの中心部にある広場は大勢の人でにぎわっていた。ミスピニョンが選出されていたが、我々が乗ってきたバスのラッピングの女性と同じように、3人とも栗色の髪の白人女性で、この町が白人の移住地として成り立った南部の町であることを思い出させた。

ピニョンを茹でたものが配布されていて、我々も茹でたてをいただいたが、栗のように香ばしくておいしい。この広場に、ブラジルと日本の国旗、そしてパラナ松のデザインがあしらわれたおそろいのTシャツを着たラジェス日本人会の方々が、迎えに来てくれた。
気持ちの良い天気の中、美しいラジェス教区大聖堂まで、皆で散策。1912年に着工、1922年に完成した。石造りのネオゴシック様式の大聖堂の中を見学した後、イタリア系のポルキロレストランで交流会が行われた。ラジェス日本人会は会館を持っていないため、こちらを予約してくれたそうだ。イタリア料理やブラジル料理、この地方の名物ピニョンを使った料理まで、バリエーション豊かに揃っていて、日本人会の方々とおしゃべりしながら、思い思いにそれらの名物料理を味わった。
1959年、8歳の時に福島県郡山市からブラジルに来た二瓶廣康さんは、2022年にラジェスに来たのだという。先にブラジルに来ていた兄を頼り、サンパウロ市から60キロ程のところにあるマイリンケという街に来て、家族はフルーツを作り、末っ子だった廣康さんは、小さいころから勉強をさせてもらい、15歳でサンパウロ市内に出て写真を覚えて写真関係の仕事をしてきた。
インフレが高かったときは、日本にデカセギにも行ったそうだが、会社員をしたことがなかったため会社勤めが合わず、ブラジルに戻ってきた。だが再度日本に行き、エレクトロニクスの勉強をして別の会社に勤めたりしたそうだ。ブラジルに戻ってきてからは、写真の仕事もデジタルの波が来てフィルムが無くなった時に辞めた。
その後奥さんと息子さんが亡くなり、独り身になってしまい、姉がラジェスにいたので呼ばれてきたところ、姉も亡くなってしまい、今は姪のニシオカ・ジュンコさんを頼りにしているという。「(サンパウロに比べて)こちらは寒いね。日本食も近郊のクリチバーノスまで行かないと食べられないんだよね」とサンパウロを懐かしんでいた。

ラジェスには、どれくらいの日本人がいるのかと、ラジェスのTシャツを着ていたサイトウ・ミミさんに話を伺った。彼女はラジェスから車で1時間ほどのところにあるアニタ・ガリバウジ出身で、子どもの頃、藤田家とサイトウ家に養子縁組されたという。
養父は福島県出身でサンパウロでは太陽堂を営んでいた。小さい頃、父母に連れられてラジェスに来て、その後も何度か来るうちに、いい街だなと思い、2006年にラジェスに引っ越してきたという。日本語がとても上手なので、どうしてなのかと聞くと、「父母が日本語しか話さなかったからだ」という。
ここには35家族で100人ぐらい日系人がいるが、日本人会に参加して実際に活動しているのは40人ぐらいだそうだ。なぜミミさんは熱心に活動しているのかを聞いてみると、「みんな若い人が日本のこと、日本の文化を忘れてきている。長男は日本語を話すけど、次男は全然。だから危機感があるんです」と、ラジェス日本人会の誰よりも流ちょうな日本語で説明してくれた。(麻生公子記者、つづく)