山を二つ越えるというのは、まったくの初耳でした。その上、マリーはロングスカートにレースのブラウス。それに踵の高い靴を履いて、耳と首にはチャリン、チャリンと金具をぶら下げて、隣の町にでも出かけるような恰好でしたから、私も軽い気持ちで応じたのですが・・・・。
こんなことならと、即座に彼女を見捨てて家に帰ろうと思いましたが、私の大事な荷物は乳母車にくくりつけてあるので逃げ出す事も出来ません。
「なんて頭のいい女!ひとりで来たくないものだから、さんざんめかしこんで私をだまし、おまけに私の荷物を人質にして・・・・」
私は、そんな悪態をつきながら、マリーに従って行きました。
それでも私が喜んでいるなんて、思われたくなかったので、マリーの背中に向かって、「何よ、この山は!山と言うものは、なだらかな坂からだんだん急になるものなのに、ここは始めからとんでもない泥んこの崖じゃあないの!」と、怒鳴ろうと思ったのですが、止めにしました。何故かというと、ブラジル語で崖はなんというか知らなかったのです。
この次は、辞書をかついでこなくちゃと独り言を言いながら、泥んこ道にはまり込んだ足を代わりばんこに引っこ抜いて、ヨイショ、ヨイショと這い上がる私。
こんな姿を見たら、サンパウロの人たちはきっと、キンキン、カンカン大喜びするだろう。それ、見たことか、言わんこっちゃない。バイーアなんかに行くからだ。・・・。と。
負けてなるものか、と呟きながらの前進、また前進。ところが途中で、あっという間にすってんころりん。マリーには何事もなかった素振で鼻歌を歌ってみせた私。
そうこうしているうちに、何の力がそうさせるのか私の足が急に軽くなって、山へ山へと誘われていったのです。
山の匂い、そうそれは山の匂いです。しかも日本のあの山の匂いだったのです。私が夢中でその匂いを追いかけているうちに、いつの間にか山のてっぺんに立っていました。下を振り返って見ると、マリーが乳母車を相手に悪戦苦闘していました。
私が、急いで助けに下りて行くと、乳母車の中でカイオが抱っこをせがみました。カイオもなかなか進まない車にいらだっていたようです。
マリーもやはり疲れていたのでしょう。
私にこう言いました。
「大事な物だけ手にもって、乳母車と他の荷物は置いていきましょう。後で、弟たちに取りにこさせるから」
そこで、身軽になった私たちは、ちょっと楽な気分になって登りました。
私は少しも疲れていませんでした。