《特別寄稿》菊池寛『芥川の事ども』から=親友・芥川龍之介への痛恨の悼む言葉=サンパウロ市在住 毛利律子

芥川龍之介(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 今年は芥川龍之介の生誕130年に当たる。芥川龍之介(1892~1927)は、個人的にも敬愛してやまない日本を代表する文豪で、その多くの作品を折々に深く心に感じつつ読み返している。
 日本では、生誕を記念して展示会などが各地で開催されているようである。なかでも、甲府市の山梨県立文学館では、直筆の資料などおよそ60点をもとに、芥川の旅の軌跡をたどる展示がある。案内の記事には、芥川は青年時代から、当時としては珍しく海外旅行も経験し、中国各地を旅することも好んだようである。山梨・長野への徒歩旅行、失恋の傷を癒やした松江での日々、東北から北海道にかけての講演旅行など、各地での見聞は芥川作品に様々な影響を与えた、と記されている。
 なお、ニッケイ新聞2020年9月2日、3日付では深沢正雪氏による「芥川龍之介がブラジル移住したら?=知られざる山本喜誉司との関係(上・下)」(https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200902-72colonia.html)という、非常に興味深い記事が掲載されている。
 それは、山本の二男カルロス坦氏による、実父・山本喜誉司(1892-1963、東京都出身)と芥川龍之介との交流秘話である。山本喜誉司は1930年代、日系最古の企業の一つ、東山農場の当時の農場長であった。
 山本には芥川と約80通もの交換書簡があり、遺族が全書簡を残したことで、知られざる芥川の人となりが明らかになっている。
 芥川は昭和2年(1927)7月24日、自殺した。享年35歳であった。その一年前、1926年10月、山本喜誉司は東山農場購入のために単身来伯し、翌年には家族を呼び寄せた。そして芥川をブラジルに呼び寄せ療養させようと念願していたようである。『山本喜誉司評伝』(サンパウロ人文科学研究所、1981年、18頁)には、《山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった》《もし芥川をブラジルに呼ぶことに成功していたら自殺しなかったかもしれない》とある。
 記事には、もしこの話が実現して、芥川が長生きしていたら…等々、興味の尽きない話題に溢れている。

残された人間はいつまでも後悔をし続ける

 芥川は、1921(大正10)年に仕事で中国の北京を訪れた頃から肺結核を患い、神経も病み、睡眠薬を服用するようになっていった。
 そして、昭和2年7月23日の夕方に家族と夕食を共にし、その夜、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。その間、久米正雄や萩原朔太郎などに、「自分は発狂する前に自殺する」というようなことを吐露していた。
 自死を決行するまでに、何人かの親しい人を尋ねていた。死の前日は、近所に住む室生犀星(詩人)を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星もまた後年まで、「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。
 中でも、最も親しくしていた一人が菊池寛であった。

1919年(大正8年)長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は菊池寛(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

菊池寛、『文藝春秋』を創刊する

 菊池寛は大正12(1923)年、『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営をする他にも文芸家協会会長等を務めた。しかし、終戦後の昭和22年(1947)、GHQから公職追放の令が下された。日本の「侵略戦争」に『文藝春秋』が指導的立場をとったというのが理由であった。そして翌年の昭和23年(1948)3月6日、狭心症発作で59歳で急死してしまった。
 それでは芥川にとって、菊池寛はどういう友であったか。それは、
「現に今日まで度々自分は自分よりも自分の身になって、菊池に自分の問題を考えて貰った。それ程自分に兄貴らしい心もちを起させる人間は、今の所天下に菊池寛の外は一人もいない」(エッセイ『兄貴のような心持』)と述べるほど信頼を寄せた存在であった。
 芥川の葬儀のときに菊池は、弔辞を読みながら号泣したという逸話が残されているが、その嘆きの理由は『芥川の事ども』で語られる。

菊池寛『芥川の事ども』から考えられる自殺の理由を読み解く

 《芥川の死について、いろいろな事が、書けそうで、そのくせ書き出してみると、何も書けない。
 死因については我々にもハッキリしたことは分らない。結局、芥川自身が、言っているように主なる原因は「ボンヤリした不安」であろう。
 それに、二、三年来の身体的疲労、神経衰弱、わずらわしき世俗的苦労、そんなものが、彼の絶望的な人生観をいよいよ深くして、あんな結果になったのだろうと思う。
 その上、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。我々の中で、一番高踏的(孤高を保つ)で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な苦労がつきまとっていったのは、何という皮肉だろう》(菊池寛『芥川の事ども』より)
 本書で菊池は、芥川との出会いと友情、自殺の直前までの関係が切々とありのままに述べている。気性の違いによる食い違いがあっても、二人には一度もいさかいが無かったこと。菊池は怒るとダレカレ構わず、すぐに速達を飛ばすので、知友間に「菊池の速達」として知られたが、芥川だけには一度もこの速達を出したことがないこと。どちらかといえば菊池の方が芥川に迷惑をかけた方が多かったこと。
 そして、共同編集での騒動の時には、すでに芥川は、自殺を決心していたであろう。自分宛の遺書の日付は、4月16日であるから、もうその頃は、いよいよ決心も熟していたわけである、と綴っている。

考えられる理由①
円本(一冊一円の全集本)ブームによる、興文社『近代日本文学読本』騒動

 関東大震災の当日(1923年9月1日)、芥川は『近代日本文学読本』の編集作業の依頼を受けている。『近代日本文学読本』は、文部省(現・文部科学省)の検定を受け、中学校用として、明治・大正の文芸家たちの作品を集めた副読本が企画された。制作過程で人妻・波多野秋子と情死した有島武郎、武者小路実篤などの収録にこだわったことで文部省の検定は受けられなかった。それでも、全5巻、随筆・日記・戯曲・詩歌・評論・翻訳、148篇を収録。各巻1円70銭の定価で出版に至った。
 この『近代日本文学読本』には存命している文芸家が多数含まれたが、収録文芸家の一人で尾崎紅葉門下の徳田秋声は、無断転用されたと物言いをつけた。教科書が目的の場合、無断転載は当時としては起こりえることだったようだが、芥川にとって、こうした同人の物言いや、印税を独り占めしたといった噂が耐え難かったという。芥川は、「円本」が売れていく様子を見ながら、編集、金銭にまつわる気苦労を十二分に味わっていた。

理由②
真面目過ぎたが故の苦労

 《芥川の性格は生きるに真面目過ぎた。彼はあまりに世俗のことに繊細で、気遣いが過ぎた》(同)
 菊池によると、凝り性の芥川はこの企画に心血を注いで編集した。不平が出ないように、出来るだけ多くの文人の作品を収録した。それは何人に対しても敬意を払おうとする彼の配慮であったのだ。そのため、収録された作者数は、百二、三十人にも上った。しかし、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であったため、たくさん売れなかった。そして、その印税も編集を手伝った二、三人に分配したので、芥川も苦労をした割には、十分の一の報酬も得られなかった。

理由③
芥川は妄説を気にしすぎた

 出版直後に、「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」という妄説が生じた。中には、「我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん」と、不平をこぼす作家まで生じた。
 こうした妄説を、芥川がいかに気にしたことか。
 芥川は、このことが堪らなかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付するようにしたい」と、私に言った。私は、そんなことを気にすることはない。グズグズ言う奴には言わして置けばいいと、口がす(酢)くなるほど彼に言った。しかし、芥川の丁寧すぎる配慮が、不平を呼び起す種となり、彼としては心外千万なことであったろう。
 印税を各作家に分配するとも言い出した。私はこの説にも反対した。百二、三十人に分配して、一人に十円くらいずつやったくらいで、何にもならないじゃないかと言った。私が、そう言えばその場は承服していたようであったが、彼はやっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許にもれなく贈ったらしい。
 《私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかった。だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ》(同)

理由④
菊池とのすれ違い

 この事件と前後して、わずらわしい事件が三つも四つもあった。みんな世俗的な事件で、芥川の神経には堪らないことばかりであった。
 その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人の令弟の発病など、いろいろ不幸がつづいていた。
 それが、数年来萠きざしていた彼の厭世的人生観をいよいよ実際的なものにし、彼の病苦と相俟って自殺の時期を早めたものらしい。
そして、菊池は芥川の自殺を止められなかった後悔のため、その死を受け入れることが出来なかった。
 《「全集」出版がゴタゴタを起し、芥川にはまったく気の毒で芥川と直面するのがきまり悪く、「文藝春秋座談会」の席上で二度とも会っているのに、芥川の死ぬ前に、残って話す機会を作ろうとしなかった自分を悔やんだ。
 ただあの時のこと…。
 万世橋の瓢亭で、座談会があったとき、私は自動車に乗ろうとした。彼はチラリと僕の方を見たが、その眼には異様な光があった。ああ、芥川は僕と話したいのだなと思ったが、もう車がうごき出していたので、そのままになってしまった。芥川は、そんなときあらわに希望を言う男ではないのだが、その時の眼付きは、僕と、もっと残って話したい渇望があったように思われる。僕はその眼付きが気になり、以後その時の後悔に苛まされている》(同)
 死後に分ったことだが、芥川は7月の初旬に二度も、文藝春秋社を訪ねていた。二度とも、菊池はいなかった。これも後で分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけていたという。社員の誰も菊池に芥川の来訪を告げてなかった。最期に芥川が何事か思いを打ち明けようと菊池を訪ねたにも関わらず、その機会を逸してしまった。
 そして最期の最後、二人はすれ違いの一瞬、互いを見た。それ以降、菊池は、「立ち止まって話を聞けばよかった」という強い後悔に苛まれ続け、遺憾の思いを払拭することはなかった。
 芥川は、菊池の現世的な生活力を頼もしく思っていた。彼は、そういう点の一番欠けている人間だったことに気づいていた菊池は、もっと彼と往来して、彼の生活力を刺激していたら、と後悔の念は増すばかりであった。
 菊池は言う。
 《彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らないことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろう》(同)

芥川への賛辞

『芥川の事ども』 Kindle版

 菊池寛は彼の文学は日本近代文学の最高峰と絶賛した。その思いを、昭和10年(1935)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」を設立して表した。
 連載中の「侏儒の言葉」欄を永久に記念するために、継続して掲載を決めた。そして、次のように讃えた。
 《彼(芥川)のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。
 我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから》(同)
 最後に、名言集『侏儒の言葉』は、人生の節目節目で、大いなる感動の言葉に出会える一書としてお勧めしたい。
【参考本】『芥川の事ども』 Kindle版
ASIN ‏ : ‎ B009IY2DTK 発売日 ‏ : ‎ 2012/9/27

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