《特別寄稿》死者が溢れ、街の通りが遺体の海に=リオを斃(たお)したスペイン風邪=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

「マスクを外す?外さない?」

 世界はコロナ禍終息宣言とともに、様々な規制が緩和され、マスク着用は「個人の判断が基本となり」、本人の意思に反してマスクの着脱を強いることがないよう周りが配慮することを「ただし…」書きをつけて公表した。ブラジル政府もほぼ同様な内容で、公共交通機関や公共の場での防護マスクの着用義務を撤回した。
 しかし、案外多くのブラジル人がマスクを着用している。ここ数年のコロナ禍は、マスクで自分の健康を守る概念が、ブラジル社会にも定着化しつつあるということか。
 今、菊池寛の短編小説「マスク・スペイン風邪をめぐる小説集、マスク他、8つの短編集」が復刻し、盛んに読まれているようだ。この作品は、スペイン風邪が猛威をふるった100年前、菊池が実際に体験した猛烈な流行性感冒(スペイン風邪)から身を護るために着用していたマスクを、終息後に「外す?外さない?」とためらい葛藤した、複雑な心の機微が綴られた作品である。まさに今、コロナ禍を無事に潜り抜けたが、やすやすマスクを手放せない心情が語られている。
 菊池寛は文芸春秋社を立ち上げ、芥川賞や直木賞、菊池寛賞の創設に携わった小説家である。その風体は、特徴的な黒縁丸眼鏡で恰幅の良い頑健な体格に見えるが、「内臓と云う内臓が人並以下に脆弱。心臓と肺とが弱い上に、去年あたりから胃腸を害してしまった。内臓では、強いものは一つもなかった。その癖身体だけは、肥っている」。そのような見掛け倒しの身体内部は、「流行性感冒(スペイン風邪)に罹って、四十度位の熱が三、四日も続けばもう助かりっこない」。
 猛烈なスペイン風邪が終息してもなお、怯え切った菊池は「マスクを外すか、どうするか」と呻吟する。まさに今起きている状況である。
 疫病によって人類が斃されていく過程や、人々が身を護るために施した手段は、100年前のスペイン風邪やペストのパンデミックから、現在の高度最先端医療下のコロナ禍においてさえ、ほとんど変わらないことを、歴史も小説も教えている。
 約100年前、ブラジルで蔓延したスペイン風邪は、今回の新型コロナと同じようにリオの人々を斃した。その時リオ政府は、医療者は、人々はどうしたか。一つの文献から見えたのは、紛うことなき今のコロナ禍と同じ状況であった。
 アドリアナ・ダ・コスタ・グラールの学術文書『スペイン風邪の再訪―リオ・デ・ジャネイロでの1918年のインフルエンザ大流行』は克明にその時の状況を報告している。リオで何が起きたか、その実態を要約して紹介したい。

1918年、米国カンザス州の野戦病院の様子(Otis Historical Archives, National Museum of Health and Medicine)

それは次のように始まった

 1918年5月頃から、ヨーロッパとアフリカで、診断がはっきりしない伝染病が広がり始めた。最初は、コレラ、デング熱、発疹チフスなど、他の多くの病気と混同された。6月になって初めて、それがヨーロッパのさまざまな場所に広がっていた一種のグリッペまたはインフルエンザであることを示唆するニュースがロンドンから届いた。
 その病は8カ月で地球を一周し、5千万人から1億人を殺し、医学の最大の謎として残ることになったスペイン風邪パンデミックであった。ブラジルでは、第1次世界大戦中の8月中旬から9月上旬にかけて、リオ・デ・ジャネイロの新聞に、特定の病気に関するいくつかの短い記事が掲載され始めた。しかし、政府当局も一般大衆もあまり注意を払っていなかった。

「スペイン風邪」という造語の由来

 スペイン風邪(英語名スパニッシュ・インフルエンザ)の名前の由来は、中立国であるスペインが報道したことによるとされている。第1次世界大戦中、アメリカやヨーロッパの各国では士気維持のためと、軍隊の軍事能力に大きな打撃を与える懸念から、情報統制され、当初は「塹壕熱」と呼んだ。
 諸国が報道統制を行う一方で、中立国であったスペインでは被害の状況が自由に報道されていた。首都マドリードでは5月頃から第1波についての新聞報道が始まり、その後、国王アルフォンソ13世が罹患すると、発生源はスペインであると広く信じられ、このパンデミックは世界的に「スペイン風邪 (Spanish flu)」と呼ばれることとなった。

A Caretaの風刺画

 スペイン風邪がヨーロッパ全土に広がった一方で、ブラジルでは、この流行病についてのニュースは無視され、首都リオ・デ・ジャネイロでは冗談のネタ、科学的にも疑わしい論調が賑わい、ブラジル人は免疫が強いから大丈夫、という根拠の無い自慢話が広がった。
 その時、A Caretaに掲載された記事(no. 537) は、強い政治的批判を含んだ風刺画を報道した。それには病魔解明に真剣に取り組む衛生士や検査技師が、政府よりもよほど信頼のおける公衆衛生管理者の理想的なモデルとして描かれた。ブラジル政府が得体のしれない伝染病の情報を迂闊にして対策を遅らせたことに対する痛烈な批判を示しているものである。

細菌はドイツの潜水艦から拡散された

 この伝染病はドイツで製造、瓶詰めされ、潜水艦によって海岸に投げ込まれ、無垢の住民が拾い上げ、この恐ろしい病気が世界に広がった―というデマが流れた。1917年にドイツの船がブラジルの船を魚雷で攻撃した後に、(1941年にサントス沖で再び起こる)ブラジル政府はこの事態を機に、国家の主権、自治、および威厳を守るためには避けられないと見なし、世界大戦への参戦を決定したという。

市の人口の約66%が罹患

 1918年9月のリオ市の人口は91万710人で、都市部に69万7543人、郊外と農村部に21万3167人であった。この期間にインフルエンザで死亡したのはわずか48人。しかし、すぐに前例のない死亡者数に上る。10月22日だけで、合計1073人の死亡者のうち930人がこの病気に起因していた。リオでは、スペイン風邪により約1万5千人が死亡し、さらに60万人が寝たきりになった。つまり、市の人口の約66%が罹患した。
 ブラジルの医療従事者がラプラタ号でダカールに航海中に乗船客合計156人が死亡した。搭乗していた80名の医師は、未知の病によって次々と倒れた将校や兵士に手の施しようがなかった。この事態に関する最初のニュースは、9月22日に責任者から送信され、マスコミは動揺した。
 しかし、ある衛生検査官によると、軍の圧力によってこの出来事は隠蔽され、伝染の進捗状況を監視することを難しくした。さらに事態を複雑にしたのは、連邦公衆衛生機関のインフラ整備が完全に欠如していたことであった。すなわち、港湾での公衆衛生の管理を担当する部門では停泊するすべての船を消毒することができなかった。
 混乱のさなか、リオ港の衛生検査官ジェイミー・シルバは、船を放置することに同意したため、感染拡大を助長したとして告発されたが、彼は細菌感染が信じられなかったからだと証言した。
 リオの医療施設は、嘆かわしいほど粗末であった。施設は機能不全、医療者は訓練不足。公的支援サービス機関は役に立たなかった。路上で倒れた病人は、通行人の助けを借り、パトカーや葬儀の霊柩車で救助された。救急車、臨床機器全般が不足。医療機関の物質的および看護師の技術訓練は全くお粗末であった。
 政府の無能さ、怠慢、医療機関に対する隠蔽体質、貧弱な財政と無用な政治的干渉、官僚主義が医学・科学的進歩を不可能にしていたのである。

1918年、ルッシェンブルグに作られた野戦病院で横たわるスペイン風邪をひいた兵士たち(The National Library of Medicine believes this item to be in the public domain)

スペイン風邪の症状

 一旦上陸したこの伝染病は瞬時に拡散した。潜伏期間は短く、症状はさまざまであった。耳鳴り、難聴、頭痛、単純な高熱から病気が進行し、悪寒、出血、血尿や嘔吐などの症状が現れる。心臓神経の障害、腸、肺、および髄膜の感染症、窒息、下痢、刺すような腹痛、無気力、昏睡、尿毒症、失神、そして最後には、数時間または数日中に死亡する。
 これらの疾患が幅広い症状として現れるため、治療処置の意見が分かれ、医療現場は混乱した。
 市民は、街が崩壊の危機に瀕していることにすぐに気づいた。医薬品や食品は非常に希少で高価だった。ほとんどの物品やサービスが都市の中心部でしか利用できず、全人口に平等に支援することが不可能であった。

通りは遺体の海

 街の通りはすぐに遺体の海に変わった。死体を埋めるための十分な墓掘り人も棺も完全に不足し遺体の埋葬が追いつかなくなった。日に日に、非常に多くの死者が打ち捨てられ、遺体は膨らみ、腐り始めた。
 多くの家庭では家族全員が死亡した。墓掘り人、ゴミ収集員、警官が薬を配り、人々に食事を提供したが、彼らも、彼らの家族全員も感染した。人々は家の窓やドアに黒い布を掛けて、病人がそこにいることを知らせ、助けを求めた。
 政府は公の場でも新聞でも、体力のある者はインフルエンザに感染しない。年寄りと病人だけが罹るものである、と力説した。それに猛反発した社会的緊張が日に日に高まり、反体制政治団体による反政府活動も活発化する一方で、多くの市民は教会、学校、クラブ、ブラジル赤十字社などの民間団体に支援を求めた。
 問題は、「健康な」保菌者、つまり、症状を発症することなく細菌またはウイルスを保有している個人をどうするか。この問題解決のため、医師団は、検疫と隔離政策の徹底、在宅支援と公的緊急救助サービス導入を強く政府に求めた。しかし、病の勢いはすさまじかった。

万国共通の予防法

 そして、多くの疫病と同じく、スペイン風邪もいつの間にか消えていた。人々の記憶も薄れる中で、またいつ襲来するかもしれない疫病に対して講じられたのは予防心得であった。この教訓から、医療設備、研究所等が改善充実していった。
 リオで発行された心得「インフルエンザから身を守れ」(Previnase contra a gripe)は、現在世界で「咳エチケット」として推奨されていることとほとんど同じ内容である(以下要約)
     ☆
 唾液の飛沫 – それは危険をはらんでいます
 なんと危険なことでしょう。率直に言います。風邪をひいた友は、私に近づかないでください。咳をするときはハンカチで口を覆いましょう。咳をするときはティッシュを使おう。くしゃみの時も。
 手すりも、お金も、ドアノブも細菌の繁殖地。ばい菌の温床です。
 インフルエンザは頻繁に起こります。それを回避することはできません。自分は罹らないなんて無理です。しかし、間違いなく救済策があります。
 それは常に手を洗うこと。インフルエンザに罹りたくないなら、風邪を治したいなら握手を避けましょう。でもそれが避けられないなら、できる限り手を洗いましょう。たっぷりの石鹸と水で。
 インフルエンザはもう治りましたか? ゆっくりと、昔の楽しみに戻りましょう。通常の生活に戻りましょう。
 確実にすべてが元の状態に戻っていることを確認してください。そうでなければ、友よ、あなたはまたもう一度病気になり、ばい菌をまき散らし、悪を広めることになるのです。
【参考文献】
◎菊池寛『マスク・スペイン風邪をめぐる小説集』文春文庫、電子書籍版、2020年
◎アドリアナ・ダ・コスタ・グラール著、学術文書『スペイン風邪の再訪―リオ・デ・ジャネイロでの1918年のインフルエンザ大流行』(ブラジルでのスペイン風邪に関する文書•歴史、scienc。saude-Manguinhos 12 (1) • 2005年4月SciELO – Brazil https://www.scielo.br › hcsm)

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