《特別寄稿》ペリーが愛した琉球王国の姿=黒船の首席通訳の日本遠征随行記 聖市ビラ・カロン在住  毛利律子

ジャーナリスト目線で記録した当時の琉球

首席通訳サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日本近代化の扉を開いたペリー提督が最も信頼して同行させた首席通訳は、サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(1812―1884)という米国人であった。その人はマシュー・ペリー提督が絶対的信頼を置き、鎖国の重い扉をこじ開ける「むずかしい任務を達成するための欠くべからざる有能な人物」と称賛したほどであった。
 彼が日本遠征隊に参加したのは41歳の時であったが、その前はアメリカ対外宣教委員会から中国に派遣され、広東、マカオで20年近く「チャイニーズ・レポジトリー」という月刊誌の編集にあたり、「中国総論」という名著で中国研究の筆頭として知られている。
 彼の日録が、優れてジャーナリスト的目線で書かれていると評価されるのは、ペリー提督自身の日記や公式記録とは異なる視線で日米交渉の一部始終を目撃し、綿密な極東情報を記録、日本の開国という新しい時代を切り開いた歴史的事件の目撃者として、一切の虚飾、独断を避け、ひたすらありのままの事実を後世に語り継ごうとした真摯な姿勢に由るものである(洞富雄)。
 一方、彼はピューリタンの厳格な家庭環境で小さい時から強い宗教的情操の性格が育まれ、人間性を大切にする心構えを身に付けていた。冷徹な洞察力と文筆の才に加えて、例えば、ペリー提督がことさら沖縄人に対する優しさを、彼特有の感情で記録している。
 さらには、彼が博物学の教師を志していたということから、自然観察の好奇心はまことに旺盛で、この日誌からも人と物、そして自然とのたくまざる観察は読む者の想像力を掻き立て、この随行記全体を非常に豊かにしている。
 ここでは、ペリー提督一行が、特に5度に亘って訪問した沖縄での記録に絞って、ウィリアムズが記録した自然と人々への優しいまなざしの断片を辿ってみた。

ペリー提督一行の航路 

 ペリー提督が4隻の蒸気機関の黒船艦隊を率いて初めて浦賀沖に来航したのは1853年であった。そして翌年の1854年、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫った。結局、徳川幕府は横浜村で日米和親条約を締結した。これに続いてイギリス、ロシアも日本との条約を結んだ。
 こうして、200年以上にわたる「鎖国」政策は終わりを告げ、それから15年後の1968年(慶応4年/明治元年)に、天皇を中心とする中央集権国家を目指した明治政府が誕生した。
 二度にわたるペリー艦隊一行の航路は、当初から直に浦賀沖に向かったのでなく、南アフリカの喜望峰を回って、▼沖縄→小笠原諸島調査→▼帰りに沖縄、そして、第1回目の日本訪問→▼沖縄→香港→▼4度目の沖縄→2回目の日本→下田→箱館→下田→▼最後の沖縄→広東へ帰着という大遠征であった。
 日本上陸に先立ち、1853年5月26日に那覇港に入港、琉球王府の首里城に入城。翌年、日本と「日米和親条約」を締結した後、那覇に寄港し、1854年7月11日、琉球王国とも「琉米修好条約」を結んだ。
 その時の「ペリー提督上陸記念碑」は那覇市泊高校前にある「泊外人墓地内」に設置されている。

ペリーが日本に開国を迫った理由?

 ペリーは何のために日本に開国を迫ったのかというと、理由は2つある。一つは、当時アメリカと清が貿易をしていたため、その中継基地として日本の港が欲しかったこと。そしてもう一つは周辺海域の捕鯨が盛んで、捕鯨基地としても日本が必要であった。
 小笠原・北海道・ハワイを結ぶ海域には、マッコウクジラが多数生息し、その海域は、ジャパン・グラウンドと呼ばれた大捕鯨漁場で、600隻から700隻の捕鯨船が操業していたという。ペリー来航の目的の一つは、この捕鯨船へ物資を補給する港を確保することであった。
 鯨油を用いたキャンドル・精密機械油・クリーム・洗剤や、クジラヒゲを用いた女性用コルセット・パラソルなど。クジラはこれらの製品の原料であり、クジラから採れる鯨油は、一時期、アメリカの近代化を支えた。日本近海におけるアメリカ捕鯨船の大挙操業は、日本に開国を促すこととなり、明治維新のきっかけの一つとなった。

ペリーはなぜ、まず琉球にきたのか

 ペリーの来琉は市場開拓を強要するために必要な軍事基地を置くことに目的があったという。
 ペリー提督が合衆政府海軍長官に送った意見書(「日本遠征関係往復書簡」)に、次のような一文を書いた。
 「この美しい島は日本の異国であり、同じ法律によって統合されている。住民は勤勉かつ温和である。そして、すでに私は彼らの恐怖心を静め、彼らの友誼を得ることにかなり成功している。また、私は那覇を艦隊集合基地にするつもりであるが、やがて、この島全体は我々に対して、まったく友好的になることが期待されるであろう。彼らはすでに艦船に供給すべき補給品の代価を受け取ることに同意した」
 ペリーは「もし、日本政府が開港を拒否した場合は、沖縄を占領したい」と上申し、本国政府はそれを同意した、というものである。そして、実に5度沖縄を訪れ、自然の調査、首里城見学、一般島民とのふれあいを活発に実行した。
 ここで、ペリー一行が那覇に上陸したころの沖縄の情勢に簡単に触れたい。
 上原兼善の『黒船来航と琉球王国』によると、19世紀前半、沖縄にはペリー来航の前から異国船が頻繁に現れ、国交・通商や布教を求めてきた。薩摩藩の支配を受けながら中国への朝貢を続け、東アジアで長く独立を保っていた琉球王国は、対応に必死となる。当時の王府の内部史料によると、国際秩序の激変に立ち向かう「小さな島」の奮闘ぶりが見えてくる。
 禁教政策に阻まれて粗暴になっていく宣教師。首里城入城を強行する英国船の艦長。武装兵で交渉会場を取り囲み、条約調印を迫るフランスの提督。既成事実を積み重ね、最後は武力と恫喝で横車を押す手法は、西洋が世界に広めた交易や布教の「自由」の実態を露わにする。アメリカの水兵による窃盗や性暴力も、民衆生活を不安に陥れた。通訳官を始めとする現場担当者には、那覇の市中こそ外交の「戦場」だった。
 しかし「外圧」に増して手強い相手であった江戸幕府は、琉球を外国扱いにして開国要求を引き受けさせながら、欧米への寝返りを恐れて薩摩藩に監督の徹底を求めた。薩摩藩は琉球を開国させ、長崎とは別の貿易ルートで自藩の利益をあげようとする。幕府・薩摩藩との息詰まる駆け引きと暗闘は、琉球にとって、もうひとつの外交戦だった

モリソン号事件

高川文筌と樋畑翁輔による1854年のスケッチを元にしたウィリアムズの肖像画(Daderot, CC0, via Wikimedia Commons)

 ウィリアムズの日本研究開眼のきっかけとなったのは1837年夏に起きたアメリカ船モリソン号事件であった。それは、航海中に救助した日本人漂流民を日本へ送り届けるためと、日本と交渉して通商や(キリスト教の)布教を認めてもらうためであった。だが江戸幕府は、その事情を知らず、異国船打払令に従って問答無用でモリソン号に砲撃した。
 モリソン号は浦賀から、鹿児島(薩摩さつま藩)へ入港を試みるが失敗した。しかし、モリソン号事件は幕府の鎖国政策の過渡期に起き、鎖国政策の限界を江戸幕府に突きつけた事件となった。
 ウィリアムズはその時の日本人船乗りを広東の自分の事務所に雇い入れ、彼らを相手に日本研究に取り組んだ。その結果、日本とその民族は国力、文化の両面で中国に勝ると確信した。
 彼はその時の思いを次のように述べている。
 「難破日本人水夫たちが入国を拒絶されたことは、彼らにとっても、我々にとっても不幸であったに違いないが、しかし、考えようによっては、…この男たちを十分に活用し、(日本と)永遠の友好関係を作り上げる足掛かりとしようではないか」
 この事件当時25歳だった彼は、ペリー一行の首席通訳として招聘された41歳まで、この情熱を燃やし続けていた。

第1回、初めての琉球へ

沖縄の摂政

 1853年5月、台湾周辺の大荒れの海を北上し、那覇(ナッパ)港に入港、波上付近に上陸し「地方官=那覇里主鄭長烈」の家を訪問。一時間半後、地方官の案内で那覇公館にいくと、盛装した男たちが待っていた。
 位階は金銀の簪(ジーファー、かんざし)によって区別されていた。その一人が市長で、白く長い顎髭と威厳に満ち、立派な風采をしていた。
 ペリーは彼らに対して、自分たちは親善目的であること。補給品を購入したい、明日艦上で、摂政(総理大臣クラス)の摩文仁按司と会見したい旨を伝えた。約45分間、琉球役人一団は丁寧で、お茶や飲み物等の細やかな接待をした。
 翌日、艦隊を訪問した摩文仁按司等一行は菓子二箱、酒二瓶を持参していた。艦上での彼らの態度は非常に行儀よく落ち着いていた。アメリカ側はワインやケーキ、煙草などを用意し、互いに友好的な雰囲気の交歓会となった。ペリーは、来年6月に答礼のため「首里(シュイ)」尚泰(国王)を必ず訪問すると約束した。
 その後、戦艦から降りて寝泊りできそうな民家を借りて、沖縄で初めての夜を過ごす。
 朝、青物市場に出かけると、売り手は全て女で、黒く長い髪と野性的な顔をしていた。男たちは身なりは良いが、働いている風には見えなかった。
 6月6日、徒歩行で総勢200名を超える部隊がガイドを先頭にして首里(「守礼」は沖縄の美称で「守礼之邦」からとった)に向けて出発した。首里城への登り坂の石畳を辿るにつれ、目前に繰り広げられる風景は目にも鮮やかで、魅惑的だった。巨漢のペリー提督も歩いて同行した。城の入り口には「中山」という銘の額がかかっていたが、それは首府という意味だ。
 ウィリアムズの記録では、この会談に当たってペリー側と首里側が交換した贈答品のリストは甚だ豪華である。
 5度の琉球訪問の都度、彼らは首里城までの散策を楽しみ、高台からの眺望に深く感銘した。珊瑚礁の海の色、よく手入れされた畑、それを取り巻く風景をこよなく愛した。
 また、泊桟橋周辺や町中の久茂地川沿いで見かけた人々を注意深く観察している。小柄な婦女子の服装は青や鮭色の芭蕉布や粗末な木綿でこざっぱりとしていた。これまで見てきた中国人やどの民族と比べても、清潔な印象であった。
 労働への謝礼を払おうとしても受取る者はおらず、中国人のように怠ける者も見当たらない。琉球人の我慢強さ、気性の良さ、持久力には感心するばかりで、横着な中国人を同行させたことは無思慮だったと思ったほどだった。

守礼門

葬列と大きな墓を見る

 2度目の到着後は泊村の聖現寺に滞在する。庭はきれいに掃き清められ、風通しの良い部屋で快適であった。僧侶たちの態度は丁寧であった。
 珊瑚礁の調査では、透明な海の中で青い珊瑚魚がひらひらと泳いでいた。途中で葬列にすれ違った。先頭に銘文を持った者。続いて白装束の男の一団。その後に泣き男。続いて、4人の男が赤い覆いの掛けられた棺桶を担ぐ。その後に、婦人の送葬者が続き総勢30人ほど。この列の両側を、男たちが棒で支えた綱を引っ張って、隊列と人の群れを遮っていた。
 墓は、広東で見る同じ様式であった。Ωの字に似た建造物、あるいは岩をくりぬき、入り口は切り石でふさぐ。墓碑銘には、「帰元、帰真、帰空」いずれの字句で書き始めてあった。墓前の小庭は石垣で囲まれ清潔で、埋葬の儀式は、日本式を取り入れていた。
 ウィリアムズの5度に亘る沖縄訪問の印象は、長い中国生活での不潔さに慣れていたので、琉球に戻るたびに、その行き届いた清潔さと秩序に痛く感動したということが縷々綴られている。
 以上、琉球訪問団の印象をほんの一片紹介した。
 琉球のみならず、日本随行で、ウィリアムズの探求心は広範囲に亘っているが、人物観察も細やかで、特に密航に失敗した吉田松陰への人物賛辞は格別である。
 この本の訳者・洞富雄は、ペリーをはじめ、この遠征に同行したものが残した日記は数多くあり、それらいずれにも、日本との政治的、人的交渉や、文化全般に対して敬服の念をもって認められていることは幸いである、と解説している。
【参考文献】『ペリー日本遠征随行記』洞富雄訳
雄松堂書店

最新記事