『群星』23年8月号より転載=語れなかった体験をいま子孫に=サイパン島玉砕、サンパン島玉砕の生き地獄 =サンパウロ市ビラ・カロン在住 金城繁子(きんじょう)

金城繁子さん

 私は戦争が終わって長い間、ずっとウソをついて生きてきました。私の右手は親指と小指しかありません。子や孫から「どうして指がないの」と尋ねられると、「包丁で遊んでいて切ってしまったのよ」と言い続けてきました。そんなある日、孫のビアンカちゃんから「オバーは右利きだのに、どうして右指を切ることができるの、オバーはウソつきだ」と言われました。その父親のわが子からも「ママイ、家族には本当のことを語ってほしい」と言われました。私は長い間隠し続けてきた悲しい思いがこみ上げ、あふれる涙のままにこの手記を書き、ビアンカちゃんに渡しました。

1 戦争のはじまり

太平洋戦争前の移住地サイパンでの家族写真(前列中央父母の前が私)

 1944年6月(昭和19年)、私たち家族は、父大城牛郎(おおしろうしろう)・母トヨと三男計助(かずすけ)、4男計房(かずふさ)、妹次女道代、3女房江、4女絹子、そして私の8人で南洋サイパン島の南ガラパン町グワロライに住んでいました。当時私は第二国民学校の3年生になったばかり、校舎は日本兵が使用して私たちは木陰で勉強していました。
 6月10日ごろ突然、町内係のおじさんが「空襲警報発令」と大きな声で叫びながら自転車に乗って通り過ぎて行った。お隣もおどろいて、「みんな早く、早く」と言いながら隣組で掘った防空壕へと避難しました。夕方になると、近くでドカン、ドカンと爆弾の音がして、みんなおびえていました。近くには高射砲の陣地があって、そこをめがけての攻撃らしい。組長さんに「ここは危険だ、もっと安全な場所に行くがよい」と言われました。暗くなってから父は食料や衣類等をまとめて牛車に引かせて、叔父夫婦がコーヒー作りをしていた山(タッポーチョ)へ行きました。荷物は叔父夫婦の家に置き、いっしょに山奥にある自然ガマ(洞窟)へ避難しました。
 2日後、暗くなってから兄さん二人で食料を取りに山から下りてみると、叔父の家は焼かれ荷物も全部焼き尽くされ、兄さん二人はがっくりして帰ってきました。お腹をすかせて待っていた私と妹たちは、ショックで泣きました。この場所も危ないと父が云って、暗くなるのを待って叔父夫婦と私たち家族8名は、さらに安全な所へと移動。昼間は戦闘が激しいので岩陰に隠れじっとしていました。暗くなると行動するので、どこからともなく大勢の人が集まり、どこが安全なのかさまよっていました。お腹はすくし、喉はかわくし、家族の話もだんだん少なくなって、その苦しさは忘れる事ができない。ドンニイ(地名)もすぎたころ、どこではぐれたのか叔父夫婦の姿がみえなくなっていました。

総攻撃で撃破された日本軍95式軽戦車と日本兵の遺体(USMC Archives from Quantico, USA, via Wikimedia Commons)

2 日本兵にガマを追われて… 妹絹ちゃんの死

 6月21日頃、やっと自然ガマのあるところまでたどりついた。空腹と疲れのため、みんな歩けなくなっていました。生後4カ月の赤ちゃん絹子は、おっぱいの出ない母に抱かれ一生懸命オッパイを吸う姿が忘れられない。お父さんも疲れきっていた。「飢え死にしてもよい、ここをはなれないでおこう」と父はいった。幸いにも近くにサトウキビ畑があったので、飢えをしのいだが、翌日、うす暗くなってから二人の日本の兵隊さんがきて、「水はないか!」といい、妹たちの大事な水は取り上げられ、サトウキビまで全部食べられてしまった。
 あの時父は大変怒っていましたが、どうすることも出来ませんでした。あげくのはては、妹絹ちゃんが泣きだしたので、「めいわくだ、首をしめて殺せ、殺さないのか!」と母の顔面をなぐりながら、「ここを出て行け!」とどなった。
 私たちは仕方なくガマを出た。さまよい歩いて、半時間ほどたったであろうか、とつぜん照明弾が上がり、あたりは真昼のように明るくなった。とたんに大きな音とともに炸裂する砲弾、後にいた母が、「きぬちゃん! きぬちゃん!」と泣き叫んだ。赤ちゃんの後頭部に砲弾の破片が突きささり、即死状態でぐったりしていた。
 この時に道代ちゃんの右ほほにも、そして父の額にもそれぞれ小さな破片がつき刺さって傷をおったが、絹ちゃんの事で、自分たちの傷に気がついたのはずっと後でした。暗闇の中からたくさんの人たちの「助けて!助けて」と叫ぶ声。子供の名前を呼び続ける親、女の声で「お母さん、がんばって、お母さん、がんばって!」と泣き叫ぶ声。
 多くの人たちの声が入り乱れ、そこは、まるで地獄で苦しんでいるような有様。母は動かなくなった絹ちゃんを抱いて家族8人と座っていました。だんだん冷たくなっていく妹絹ちゃん、いっしょに死にたかった。木の下にそのまま寝かせた絹ちゃん一人だけを残していくのは、胸がはりさけそうだ。家族いっしょに天国に行きたい。「絹ちゃん、先に天国でまっててね」と手を合わせ、死ぬ場所を探して歩きはじめました。

3 生き地獄

 先日の砲弾で重傷を負った日本兵があまりの苦しさに舌を切り、死にきれずにゲートルをはずして、首をしめてくれと祈るように弱々しい声で言う。父は彼のゲートルをはずしたが、首をしめることは出来ず、「ごめんなさい」といった。
 歩いているうちに計助兄の同級生に出会った。手は肉がはじけ、足は破片が貫通して低い木の枝に手も足もゆわえつけられ、止血のためかわからないけど寝かされていた。そのすぐ近くに、青白い顔のかわいい赤ちゃんが無傷なのに死んでいた。顔に4~5匹のありがうようよしていた。あの時のことが今もはっきり目に浮かぶ。
 どこからか、人間の腐った臭い。母の洋服は絹ちゃんの血で臭くなっていた。あちらこちらに、ころがっている死体の横にあるフロシキ包みをとり、「貸してください」と手をあわせ、洋服をきがえた。洋服は大きかったので、ベルトがわりにフロシキをつかった。
 サトウキビ畑はすべて焼かれ、飢えをしのぐキビもなく、一滴の水もなく、次女の道代ちゃんは、「水、水が欲しい、水が」、と泣いてばかり。母は衰弱している体から乳乳を必死にしぼり、一滴出るとなめさせ、父は自分の小便を茶わんにだして、「はい、水だよ」と飲ませた。

4 米兵に撃たれ手指3本もぎ取られる

 7月の中頃、絶好の死に場所カナベラ海岸まできていた。そこも自然ガマがあり、多くの日本兵や避難民の死体が腐乱しはじめていた。大きな銀バエがたくさんぶんぶん飛んでいてこわかった。ガマの中をのぞくと、足をけがしてあるけない日本兵がいた。
 また怒鳴られないかと、立ち去ろうとすると、「水はないか?」という。「もっていないです」と答えると、「アメリカ兵は女、子供は殺さないから水を探してこい」と云う。私と母は、ハンゴーと水筒をもって出た。もちろん、水なんてあるはずがない。岩のくぼみにたまった海水をさがしに出た。
 10分ほど歩いていると、左の方から銃声が聞こえた。「こわいよ」といいながら、小さい木がはえ茂っている所を私が前、母が後ろになり急ぎ足で道もない所をさまよい歩いていた時、米兵の声がベラベラベラと聞こえた。
 その時、米兵は私を銃で撃った。左ももと右の人差し指、中指、くすり指の3本をもぎとられた。アッというまの出来事で、痛くもない。ただこわくて、ブルブル震えていた。私は後ろをふりむき、「お母さん、手が、手が」といった。
 お母さんは、びっくりして、「どうして子供に?」と云いながら、母は洋服のバンドがわりのフロシキで手を巻いてくれた。「自分にあたればよかったのに」と涙を流した。私は涙も出ない。痛いとも、一言もいわず、水筒と飯盒をその場に捨て、お父さんが待っているガマにもどった。日本兵は私の赤く血に染まった手をみて、何もいわなかった。

5 家族一緒に死ぬ場所求めて

 私たち家族は、一緒に死ねる場所へとまた歩きはじめた。何時間も歩いただろう。海岸にたどりついた。このカナベラ海岸は、針のような鋭い岩石ばかりで、水際はすぐ深い海になっていた。そこで、たくさんの人たちが自殺したのがすぐわかった。髪の長い女性、小さい子供たちが浮いていた。
 なにもこわくなかった。父が、「さあ、絹ちゃんがまっている天国に行くんだ」と手をあわせた。みんなも手をあわせた。父は、三女の顔、次女、私、お母さん、最後に二人の兄をみつめて、「さあ、飛びこめ!」と言ったかとおもったら、何を考えたのか、直ぐに「まて!」と言った。
 15歳の兄、13歳の兄が泳げるのに気付き、海に飛び込んでも死にきれず、二人が後にのこされたらどうしよう、と言う。明日までまとう、また明日までまとう、と岩場に小さいカニや動く物をつかまえて食べ、岩のくぼみに身をひそめていた。私の手は海水で洗っての治療、それでもだんだん臭くなって、大きな銀バエがあつまる。替える包帯もなく、血でよごれたふろしきには、小さい虫がうようよしている。痛みは激しくなるばかり。死にたいけど、父も母も許してくれません。
 人間の運命か、宿命か、不思議なもの。父の言葉で明日まで、また明日までと一日一日を生き延び、幾日過ぎたであろうか。夜明け、突然目の前に立っている大きな人! アメリカ兵だ。とっさのことで、海に飛び込む余裕さえなかった。13歳の兄計房はすばやく海に飛び込んだが、波に寄せられて這い上がり必死に逃げた。裸足、岩石が足に刺さり、歩けなくなった所を米兵につかまった。妹には先に天国で待っていてねと家族で誓ったのに、本当にすまない。胸が痛む。毎日妹絹ちゃんの顔が目に浮かぶ。

6 戦後の沖縄に帰る――苦しみは続く

 こうして私たち家族は、日本が戦争に負けた後の1946年暮れに父母の故郷沖縄の兼城村字座波(かなぐすくそんあざさは、現糸満市)に帰った。沖縄も戦争で見渡す限り焼け野が原となっていました。荒れ果てたウージ畑(さとうきび畑)には白骨化した人骨や骸骨頭があちこちにあり、辛い姿でした。
 次男兄計正はサイパンから沖縄の学校に進学して、卒業してサイパンに帰る予定でした。だのに沖縄戦で学徒兵に取られて戦死してしまいました。今は健児の塔に祀られています。長男兄計彦は赤紙で兵隊に召集され、戦地から復員しましたが、すぐに病死してしまった。私の兄2人と妹絹ちゃんの3人が戦争の犠牲となったのです。
 母さんは、古里に帰っても前向きになれず鬱病になってしまいました。毎日「死にたい、死にたい」と家族を困らせていました。あの時、11歳になったばかりの私に生き残った喜びは少しもなかった。指3本を失った私は、学校の行き帰りに男の子らに「てぃもー、てぃもー」(指ナシ、指ナシ)といじめられました。
 親たちが名付けた私の本当の名前は「繁美」です。しかし男の子たちは「繁美」は「男の名前だ、女のクセして男の名前だ」とからかうばかりでした。私は親に相談もせずに一人で役場にいって「繁子」に改名させました。当時は戦争で各地の戸籍名簿が焼けて消失していましたので、簡単に名義変更ができましたが、本当の名前を自分で消す悲しい出来事でした。
 私は苦しんでいる人を助けたいと、将来看護婦になることを希望していましたが、「指3本がないと看護婦は務まらない」と差別を受け、希望もなく父と共にハルサー(畑仕事)で毎日を過ごしていました。高校への進学をあきらめた私は中学を卒業すると、せめて妹たちの進学のためにと他所の「子守り」をして必死に働き続けた。父は戦争で子供たちを失い、母の病状も良くならない中でヤケになり苦しんでいました。
 戦争の後の沖縄は、アメリカ軍の軍事基地のために多くの土地や田畑が取り上げられ、また戦地からの帰還兵や南洋・満州移住地から帰ってきた大勢の人たちで人口が増え、食糧難が続いていました。希望する仕事にもありつけず生活は少しも良くならなかった。そんな中で私はアメリカ軍の基地の中の職場、いわゆる「軍作業」で働きました。那覇空軍基地のガソリンタンクの草取り作業でした。しかし、家族の生活は一向によくならず、貧乏暮らしが続きました。

夫秀信、それぞれ独立したわが子らと共に

7 再び海外に希望を求めて――ボリビア移民からブラジルへの再移住

 結局、私たち家族は当時の琉球政府が進めたボリビア移民に応募して、1954年の第1次ボリビア移民として再び海外に希望を求めて移住することになりました。父と3男計助の家族、4男計房が先に行き、母と私と妹たちは後でボリビアに渡ることにしました。というのは父たちが出発するにあたって脱穀機やその他の農具などを買い揃えなければなりませんでしたし、その借金を解決しなければなりませんでした。私は職場の金城秀信さんの協力を得て模合(頼母子講)に参加して借金を返済することができました。
 やがて私は金城秀信さんと相思相愛の仲となり、1956年2月結婚しました。そして1959年に母、叔母、2人の子供、主人の妹2人、弟2人の10人家族で第7次移民としてボリビアに移住しました(妹の次女道代は第5次、3女房江は6次移民として先に移住)。
 密林の中の与えられた土地は肥沃な場所で、米は良く育ち豊作でした。移住地の側を流れるグランデ河の洪水が繰り返し起きたが、水が引くと土地は肥沃になり米は良く育った。しかし原始林の中の不自由な生活、それ以上に学校や教育施設がなく、子供たちの将来を考えると大きな不安が募るばかりでした。
 そんな時にブラジルの親戚上江田幸次郎(うえたこうじろう)叔父(第3代沖縄県人会ビラ・カロン支部長)から、「子供たちの将来を考えてブラジルに来るように」と強く勧められ、1964年にブラジルに再移住することにしました。「ブラジルの街ならきっと子供たちに学問させることができる」、と主人、沖縄で生まれた長女・次女、ボリビア生まれの長男・次男、それに義母と主人の兄弟たちと共に、「不法入国」で列車に乗り込みました。この決心がとても良かったと思います。
 ブラジルでは縫製下請け業を小学生となっていた長女・次女を含め家族一丸となって一心に働き、幸次郎叔父が用意してくれた土地に家を建て、生活も安定に向かいました。
 やがて私は花屋業、成長した子供たちはフェイランテ業一筋に働き、家業を盛り立ててきました。3男・4男も生まれ、末娘も誕生し、大きな家族となりました。しかし、80年代になるとブラジルはインフレーに見舞われ、生活は急速に不安定になり、事業の倒産・失業者が増え、日本への出稼ぎの波が起こりました。子供たちも私もこの波に乗り、日本に渡り20年近い歳月を働きました。

大勢の子やひ孫たちに囲まれて

8 元日本兵比日野勝廣の手記との出会い

 神奈川県藤沢市に住んでいた時に沖縄戦に従軍した元日本兵とその娘4人が手記を出版したことを偶然知り、著者の柳川たづ江さんと語り合い本を読むことができました。彼女の父日比野勝廣(ひびのかつひろ)さんは、沖縄戦で米軍の砲撃で深い傷を負い、野戦病院に取り残され、女子学徒看護師の必死の看護で生き残った1人でした。
 戦友の最後を遺族に伝えるのが生き残った者の務めと考え、遺族を訪ねた。だが遺族は「なぜあなたは生き残れたのか、さぞ、うまく隠れたのでしょう」と言われて苦しんだ。比日野さんは助けてもらった沖縄への慰霊の旅を生涯続けたそうです。
 私は自分の戦争体験を話し「手記」を読んでもらいました。すると柳川さんは「ごめんなさい」と語った。私は「戦場では誰もが同じように苦しんだ。戦争は被害者も加害者も苦しいのですから、同じですよ」と話しました。
 今、私はサンパウロ市やロンドリーナ、日本に出稼ぎでそのまま定住しているわが子ら7名の家族から生まれた孫17名とひ孫16名に囲まれて何不自由なく暮らしています。
 しかし、私が受けた戦争の傷痕は私の体の中に今もあり、心の傷となって思い起こします。私はいつも思います。戦争は人間を狂わせてしまいます。二度とあの悲しい、苦しい戦争はあってはいけない。世の人々やわが子孫たちが平和に暮らせるようにと強く願い祈ります(注 この「手記」の第6節と7節及び8節は、金城繁子さんの「手記」を知るところとなった本誌編集部が金城さんを訪ねインタビューした際に、金城さんが語った戦後の記憶をまとめたものです)。

柳川たづ江さんー沖縄戦で戦った元日本兵のお父さんの手記出版の記事

金城繁子さんの手記を読んで
柳川たづ江

金城繁子様

 先日は、お電話ありがとうございました。見ず知らずの私に、大切な手記をくださり、なんとお礼を云えばよいかわかりません。本当に感謝しています。
 読ませて頂き、最初に出た言葉が「ごめんなさい!」です。私の父は、元日本兵です。繁子さんには、きっと日本兵に怨みがあり、複雑な想いがおありでしょうねと…。
 私は元日本兵の娘です。ただただ、申し訳なく思っております。そんなふうにおもっていたら、繁子さんが「戦争のときは、みんな苦しかったから同じ」と日本兵を許して下さった言葉に私は救われました。そして、そのお言葉に今までの繁子さんの人生の重みを感じます。
 いろいろな、つらい体験や悲惨な戦場風景を見てきた中で73歳になり、やっと語ることができはじめた想い(言葉)は、聞く者を圧倒させ、戦争体験からくる繁子さんの平和への強い願いは、生きた言葉で相手に響き届きます。
 つらい体験をよく手記にまとめてくださいました。お孫さんだけでなく、みんなに読んでもらいたく思います。毎日新聞の山田さんと早稲田大学の北村先生と沖縄の平和ガイドの方に手記を送らせて頂きました。繁子さんの想いが広がってほしいのです。
 繁子さんの手記を読んでいて、105歳のお母様のお気持ちが戦争時にどんなに苦しく、辛かったかと考え込みました。そして、9歳の少女の指は、どんなに小さく細かったのだろうかと、繁子さんの「指の痛み」と「心の痛み」を思うと私は言葉をなくします。
 繁子さんの「今は幸せ」の言葉に私はホットします。ご苦労なすって、今まで生きていらっしゃったんだから、これからは、頑張りすぎないでくださいね!お身体をご自愛ください。

オバーの戦争体験を語り継ぐ
戦争は二度としてはいけない

孫 金城ビアンカひかり
翻訳:建本みちか

金城ビアンカひかり

ブラジル出身。2017年ロンドリーナ州立大学から名桜大学へ1年間の留学生で訪沖。翌18年名桜大学へ正規入学。国際学群語学教育専攻、現在3年生。

オバーの指からルーツ知る

 ブラジルの金城家は大家族です。オジーとオバーには6人の子供がいて、たくさんの孫やひ孫がいます。私の父秀幸は4男で末っ子です。たくさんの孫たちが幼い頃から疑問に思っていたのは、オバーの右手の3本の指が途中で切れていることでした。
 「何でなの?」と何度聞いても、「包丁で切ったんだよ」という同じ答えが返ってきました。「右利きなのに、どうやって切るの?」「おかしいな」と思い続けていました。大きくなってくるにつれ、オバーは何かあって嘘を云っているんじゃないか、と思うようになりました。
 ある大人に「ビアンカちゃんのおばあちゃんは戦争で手をやられたのね。だから指がないの?」と聞かれて、私はすごくびっくりしました。オバーが戦争体験者だったことも聞いたこともなくて、とてもショックを受けました。
 私はあまり記憶にないんですけど、父が後になって話してくれましたが、私はその後、オバーとけんかしたそうです。それで父がオバーと話し合い、「子どもたちには事実を話さないといけないよ。たとえどんな残酷な事実でも家族や自分たちのアイデンティティに関する話だから」と伝えたそうです。
 それ以後、オバーはすごく変わりました。戦争の話は残酷だから小さい子に話したくなかったし、かわいそうと思われたくなかったそうですが、積極的に自分から戦争の話をするようになりました。それまでの私たちは、オバーがどこから来たのかはもちろん、沖縄出身ということもわからなかったし事実を何も知らないままでした。
 オバーは、涙しながら自分史を書きました。沖縄出身の両親のこと、サイパンで生まれたこと、そして戦争当時、サイパンで逃げている時にアメリカ兵に撃たれたこと、ひとつひとつ思い出しながら時間をかけて頑張って書き上げました。

『群星』のインタビューに戦争体験をつぶさに語る繁子さん

オバーの戦争体験を語り継ぐ役目

 オバーが、サイパンでの戦争のことを思い出しながら長い時間をかけて戦争体験を書きあげました。そのメモ帳を見たら、涙で文字がにじんで何を書いているかわからないくらいでした。それを父がパソコンで文字入力し、ポルトガル語に翻訳して家族や親戚に配りました。日本語とポルトガル語バージョンの2つで記録を残しています。
 オバーは8人家族で、当時、まだ4カ月だった妹の絹ちゃんが後頭部に爆弾の破片がささり、即死状態で亡くなっています。家族で後を追おうと死に場所を探してたどり着いた崖のガマにいた日本兵に水を探して来いと言われ、探している途中にオバーは米兵に銃で撃たれ、左ももと、右手の人差し指、中指、くすり指の3本をもぎとられました。
 家族で一緒に死ねる場所を探しながら、父の指示で死ぬのを1日、また1日延ばしている間に米兵に捕まったこと、次男の兄・計正は沖縄戦で戦死、長男の兄計彦は終戦後復員したが、すぐに病死したことなどが詳細に記録されています。
 最後の部分だけ原文を紹介します。「お母さんは終戦になっても前向きになれず、鬱病になってしまい、毎日、“死にたい。死にたい”と家族を困らせた。あの時、11歳になったばかりの私に、生き残った喜びは少しもなかった。戦争とは、人間を狂わせてしまう。二度とあの悲しい、苦しい、戦争はあってはいけない。人々が平和に暮らせるように強く願いお祈りします」。
 今のオバーは「私が死んだらどうなるの? こういうことみんな忘れられるの?」と口癖のように言うようになりました。オバーが体験したことを忘れないようにするのが私の役目だと思って、大学で友達が出来た時は毎回、私の出身やオバーの話をします。そして、オバーの戦争体験記を配ります。オバーがいつか亡くなっても、オバーのメモリーがいろんな人たちの心に残ることを願いながら。

戦争はいい事なんて何もない

 私は生まれて8歳まで神奈川県にいました。1990年代、両親とも独身の頃に日本へ出稼ぎに来て2人は神奈川で出会い結婚、私が生まれました。オバーは父と一緒に神奈川に来ていて、その時元日本兵の娘さんという方との出会いがありました。その娘さんからもらった手紙を20年以上経った今も大事に持っていて、その話をよくします。
 当時、神奈川県の藤沢に住んでいて、親しくしていた近所の方から第二次大戦の沖縄戦を戦った旧陸軍軍曹日比野勝廣さん(当時84歳)と4人の娘さんたちが、戦中・戦後の苦しみの手記『今なお、屍とともに生きる』を自費出版し、新聞に掲載されたことを聞いたそうです。その方から藤沢に住む四女の柳川たづ江さん(当時53歳)の電話番号を教えられ、彼女に連絡したそうです。
 そして、オバーが戦争で指を失った被害者であること、戦争中9歳と幼かったけど大変な思いをしたことなどを話したといいます。すると、たづ江さんの口から最初に出た言葉が「ごめんなさい」でした。その後、手紙も送られてきて、「私は元日本兵の娘です。ただただ、申し訳なく思っています。きっと日本兵に怨みがあり、複雑な思いがおありでしょうね」と書かれていたそうです。
 オバーは、たづ江さんに「戦争は被害者も加害者も苦しいのですから、同じですよ。みんな苦しさは同じなのです」と言いました。その言葉に彼女は救われたそうです。その後、彼女はオバーの家にも訪れ、辛い気持ちを分かち合ったといいます。
 オバーは戦争中だけでなく、戦後もずっと辛かったと話します。「戦争はいいことなんて、何もない。苦しい気持ちは戦後もずっと残る。戦争は二度としてはいけない」と何度も言います。

平和への願い――元日本兵家族との出会い

 オバーが神奈川に移り住み、旧陸軍軍曹日比野勝廣さんの娘さんと出会ったことは、20年以上経った今もオバーの心に深く残っているようです。
 日比野さんは、沖縄戦で戦いの最中に重傷を負った後に軍の解散命令が出て、約150人の負傷兵と共に野戦病院に置き去りにされてしまいます。しかし沖縄の女子学徒看護師さんたちの必死の看護に助けられて生き残った9人の内の1人だと云います。それで日比野さんも娘さんたちも、沖縄の人々に対して有難い深い感謝の思いがずっとあるそうです。
 生きて戻った後は、「あなたはどうやって逃げてきたの? どうしてあなたは生きていて、うちの子は死んだの?」と戦死した兵士の家族から言われ、とても辛い思いをしたようです。日比野さんは辛い体験を手記にして、彼がまだ書けない心の傷を娘さんたちがそれぞれ文章にして、『今なお、屍とともに生きる』を自費出版したのでした。
 オバーも戦後もずっと大変だったと言います。オバーのお母さんは、戦時中、赤ん坊だった四女絹ちゃんをおんぶして逃げている最中に爆弾の破片が絹ちゃんに刺さって亡くしたことで、鬱になってしまいました。「死にたい、死にたい」といつも言っていたそうです。
 オバーもずっと辛く、ある時「お母さん、一緒に死のう」といって、自殺しようとしましたが、お母さんに「あんたはまだ死んではいけない」と止められたそうです。戦後76年経った今も、オバーの心は痛んでいます。「戦争は今後も絶対にあってはいけないんだよ」と強く言います。
 オバーは沖縄戦をテーマにした「平和の願い」という沖縄民謡が好きで、ブラジルで今もよくその歌を聞いています。
(ブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』2023年8月号より許可を得て転載)

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