サントス強制退去の辛い記憶=金城さん、着の身着のままで駅に=「すぐに帰れると思っていた」

強制退去の様子を語る金城盛永さん
強制退去の様子を語る金城盛永さん

 「(強制退去時は)すぐに家に帰ってこられるものだと思っていました」―こう語るのは1943年7月8日、当時のブラジル警察当局により、サントス市の自宅からの24時間以内の退去を強制された金城盛永(きんじょう・せいえい)さん(93、沖縄県中城村出身)だ。サンパウロ州マリリアを経て、聖市で暮らしてきた盛永さんはその後、サントスに戻ることはなかった。しかし、厳しい生活を乗り越えて得ることができた現在の生活に満足している様子だ。
 先にブラジルに渡っていた父親の亀吉さんは、1935年3月25日サントス着の「ありぞな丸」で母のゴザさん、兄・盛吉さんとともに、当時6歳だった盛永さんの3人を呼び寄せた。
 強制退去の当日、14歳になっていた盛永さんは兄とともにサントス市の自宅に居たところ、ブラジル人の警官がやって来た。父母は野菜売りの仕事に出て不在だったが、そのまま警官は居座った。
 父母が自宅に戻るなり、警察から「家から出て行け」と命令され、着の身着のままの状態でサントス駅に向かった。その際、自宅の鍵は隣人のポルトガル系ブラジル人に渡されたため、盛永さんは「追い出されても、すぐ戻ってこられると思っていた」という。
 自宅には叔父の家族も一緒に住んでいたため、2家族計8人が同時に追い出された。盛永さんの従兄弟は当時まだ生まれて2週間の赤ん坊で、サントスからサンパウロ市に向かう汽車の中では比較的混んでいない場所を与えられるなど配慮されたそうだ。サンパウロ市のルス駅に着いた金城家族はブラスの移民収容所では寝泊りせず、その日のうちにサンパウロ州マリリアに向かうことになった。
 マリリアでは、沖縄県人が経営する「ペンソン山城」で4日間世話になり、山城氏の仲介で同地に住んでいた比嘉(ひが)家族の農園で働くことになった。3アルケール(約7・2ヘクタール)の農園では、大豆、綿、カフェ、ピーナツ、バタタ等の野菜を生産し、盛永さんも家族とともに畑仕事に精を出した。そうした中で比嘉家の長女だったヨネコさん(90、二世)とも自然と親しくなり、8年の付き合いを経て54年にサンパウロ市で結婚している。
 その間、マリリアでは兄の盛吉さんが始めたパダリアの仕事を手伝っていたが、48年に出聖して自転車店を開業。ヨネコさんと結婚した54年には果物類を販売するフェイランテ業に就き、その後、バナナ専門のフェイランテとして96年まで42年間勤めあげた。1男3女の子宝にも恵まれ、子供たちにも幼少の頃からバナナ販売の手伝いをさせるなどして育ててきたという。
 盛永さんは85年頃に沖縄県人会サントアマーロ支部の副支部長の経験もあり、同県人会本部の青壮年会とのつながりもあった。日本語はほとんど話せないが、カラオケが趣味で獲得したトロフィーが自宅内に飾られていた。また、サンバが好きで、パンデミックが始まる直前の2020年2月のカーニバルに地元の「インペリオ・レアル」チームの一員として出場するなど、高齢となった今も矍鑠(かくしゃく)としている。
 サントス強制退去問題でブラジル沖縄県人会がブラジル政府に対して、「損害賠償を伴わない謝罪要求」をしていることについて、盛永さんは「急に追い出されて、自分たちの生活が苦しくなり、ブラジル政府に謝罪してもらうことには賛成する」と答える。
 一方で、「当時、強制退去させられたという認識はなかった。家を追い出されたのは、(ドイツ潜水艦がサントス沖でブラジルの商船を撃沈させた報復として)サントスに爆弾を落とされるかもしないという思いの中で、ブラジル政府が自分たちを守ってくれたのだと良い方向に考えていた」と証言した。

 

 

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