《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史 坂尾英矩=(22)=日本でブラジル音楽歌手を育てた功労者 ヴィルマ・デ・オリヴェイラ

東京のサシ・ペレレのステージで(本人提供)

クラウジアが種を蒔き、ソーニャ・ローザが根を張り、ヴィルマが耕して、小野リサが収穫

 人との偶然な出会いが人生を左右するきっかけになることがある。私が街を歩いていて、たまたま顔見知りの黒人トランぺッターと立ち止まっておしゃべりしたのが、一女性歌手の芸歴大転換となった。この日、東京のブラジル・レストラン「サシ・ペレレ」の小野敏郎オーナーから私に国際電話があり、当時働いていた総領事館の昼休みにそれについて考えながら歩いていたのである。
 小野さんはいつもの陸軍士官調で「おい、俺の店で女性歌手が要るから大至急送ってくれ」と口ぐせの「大至急」を忘れなかった。サンパウロで「オノ」を知らないバンドマンはもぐりだとされる位だったから、トランぺッターに電話の話をすると「それなら、うちの歌手が良い」と言うので、さっそく翌日、アヴェニーダ・ノーヴェ・デ・ジューリョにあるライブレストラン「ボン・ジョヴァンニ」へ聴きに行った。彼がすすめたとおり幅が広いレパートリーをよくこなすヴィルマだったので、その場で日本行きを決めて翌月には機上の人となった。
 ヴィルマ・デ・オリヴェイラは1948年サンパウロ生まれ、高校時代からアマチュア・バンドで歌っていたが、1969年にプロ入りして初舞台がサンパウロで小野氏経営のクラブ「イチバン」だったのである。
 しかし間もなくメキシコへ巡業するバンドに招かれてから、ずるずるべったり1974年まで4年間も滞在していた。帰伯してからサンパウロ一流のショーハウス「オ・ベコ」、ライブクラブ「テレコテコ」、レストラン「テラソ・イタリア」などでバンド専属クルーナーとして毎晩歌っていた。
 クルーナーはエンターテイナーとして芸歴が長く色々なジャンルを歌えるベテラン歌手が多いが、テレビやレコード会社にとってはヒット目的の売り出し対象とはならないから地味な存在である。そしてヴィルマが「ボン・ジョヴァンニ」で出演していた時に日本へのお座敷がかかったわけである。
 東京でヴィルマを迎えた小野さんは「なんだ、あんただったの」と驚いた。彼女が「イチバン」で歌っていたのは17年も前で、短期間の駆け出し歌手だったから小野さんは憶えていなかったのである。
 人柄も歌唱力も良い彼女を小野さんは気に入って、勤務時間外の仕事は何でも自由に許可してくれた。丁度日本はボサノーヴァ以来ブラジル熱が上がっていて、ヴィルマの評判を聞いた歌手志望者たちが教えを請うようになった。現在のベテラン歌手の中で彼女の門弟は少なくない。一番最初の生徒は群馬県玉村町でショーロ女王と言われる片山叔美で、ふるさと大使となっている。
 日本におけるブラジル音楽ヴォーカルは、1968年にトヨタ・カローラ新発売CMソングを歌ったクラウジアが種を蒔き、ソーニャ・ローザが根を張り、ヴィルマが耕して、帰国子女小野リサが収穫をあげた、と言ってよいくらいにウーマンパワーが大きく貢献しているのだ。だから豊年満作の実が結んで女性ボサノーヴァ・シンガーはブラジルより多くなっている。

ヴィルマと晩年の小野敏郎氏(撮影・原幹和、朝日新聞2007年4月17日付)

元日本陸軍士官の血を湧き立たせたマーチ

 小野さんは契約期間終了後ヴィルマを帰国させたくなかったので、何とかして日本人と結婚させようと考えていたところ、間が良く店の川村バーテンダーと仲が良くなったのを幸いに仲人役を買って出て、正式結婚にゴールインしたのである。小野さん得意の「大至急」だった。
 日本に落ち着くようになったヴィルマは日本語も早く上達したので、器楽奏者たちも気安く声をかけるようになった。日本のブラジル音楽界パイオニア・ミュージシャン先生たちは殆ど彼女と共演している。ギターの笹子重治氏とはソニーミュージックから「ボサノーヴァ・アフェア」というCDシリーズを出した他、佐藤正美、中村善郎、加賀美淳、井上みつる、長谷川久、阿部浩二などのベテラン諸氏は皆共演している。
 ブラジル人では日本で客死したベースのルイゾン、7弦ギターを初めて広めたルイジーニョなどともレコーディングした。多くの活動を書くと紙面が足りないので、私は彼女の芸歴の中からブラジル以外の海外で最初かつ最後の特筆すべき演奏会について紹介しておきたいと思う。
 先ずその前に、ひとつ裏話をしなくてはならない。
 小野さんは楽譜を読めなかったが、頭に浮かぶメロディーをミュージシャンに書かせてブラジルリズムで歌い「俺は演歌師だ」と笑っていた。口の悪い奴が小野さんを「サンバ演歌師」などと名付けたが、彼は音楽的にデリケートなセンスの持ち主だった。彼が一番好きだったのはサンバよりもマルシャ(マーチ)だったのである。それには一理があるのだ。
 そもそも植民地時代のブラジルでは、上流階級が弦楽アンサンブルでヨーロッパ音楽を楽しんでいただけで、プロミュージシャンなんて職業は成り立たなかった。ブラジルでポピュラー音楽が広まったのは、大農場主のパーティや教会行事、公園や広場などの野外音楽堂で演奏するバンダ・デ・コレットまたは床屋バンドと呼ばれた町内ブラスバンド的なグループや軍楽隊が愛好されるようになったのが一因である。
 だから吹奏楽団にマーチはピッタリと引き立つわけである。これは私の推察だが、元陸軍士官の小野さんにとって軍楽隊サウンドが若き日の血を沸きたたせたのではないだろうか。
 ところが現代になってから、ブラジルのクラシック分野の音楽家をはじめ、ポピュラー音楽の音楽家にとってマルシャは、大衆が歌いながら踊り歩くカーニバル期間だけという傾向になってしまった。20世紀前半には多くの名曲マルシャが生まれた。だが、その後モダンサンバやボサノーヴァ派は勿論、巷のバンドマンからも取り上げられなくなった。そんな中で小野さんだけが「このマルシャはいいぞ」と皆に聴かせていたのは大したものだった。

米軍基地にも大きく報道されて最後の花舞台を飾ったヴィルマ(Japan Update紙2014年6月26日付)

母の直観「お前はもうブラジルに帰ってこない」

 ブラジルでは、カーニバル・マーチで一晩中踊り続けるダンスパーティは必須行事である。これを東京のアミューズ社が2014年に沖縄で開催を企画した。しかし、この行事は今までブラジル以外の国で実施されたことはない。先ず一晩中百曲以上もカーニバル曲を知っていて歌える歌手なんて外国にはいない。
 ブラジルでも多くないのである。それからオーケストラに楽譜を渡せば弾けるという種類の音楽ではないし、重要なリズム隊がいない。ところが日本にたった一人、何百曲も暗記して歌えるベテランがいたのである。それがヴィルマだった。
 バンドの解決にはリズム隊だけブラジルから招へいしてブラスセクションは沖縄の優秀なブラスバンドを現地調達することになった。ブラジルからはサンパウロ州公式サンバ大使オズワルジーニョ・ダ・クイッカ他4人、日本側は西原高校マーチングOB9人、オールジャパン・ゴイス5人、ビギン・グループ6人、そして那覇のサンバ隊長翁長みどり師匠、総勢26人のビッグバンドとなった。
 ブラジルのどんなに豪華なダンスパーティでもこんなに大きなオーケストラは演奏されたことがない。ボタニカル・ガーデン公園に特設された美しい会場でブラスバンドが鳴り響いたのは壮観だった。
 カーニバル・ダンスパーティの幕開けには必ず演奏される「ゼー・ペレイラ」と百年以上昔の「アブレ・アラス」が始まった瞬間、私は涙が止まらなかった。実は小野さんの顔が思い出されて弔い合戦が果たされたような気持になったからである。
 ブラジルのように6時間は演奏しなかったが、来場者の中の日系ブラジル人たちは休まずに飛び跳ねていた。休憩時間に酩酊した二世の老紳士がヴィルマの手を握って「懐かしくて泣けてくるよ」と礼を言っていた姿は印象的だった。ヴィルマは思い出深いマルシャを一晩中歌い続けて、思い出深い日本生活最後の花舞台に幕を下ろしたのである。
 共演したグループ「ビギン」が感激して、翌年「マルシャ・ショーラ」と銘打って、日本曲をマルシャ・リズムに乗せて大々的に披露したのはクリエイティブな企画で、正に小野さんの「マルシャ演歌師」の世界だった。
 未亡人となったヴィルマは、30数年暮らした東京から故郷サンパウロへ帰り、娘や孫に囲まれて平和な老後を送っている。思えば37年前にコンゴーニャス空港出発ゲートで、ヴィルマに「お前はもう帰ってこないよ。分かってる」と断言した彼女のお母さんの第六感は、不思議な何か心霊的なひらめきだった。

最新記事