《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史 坂尾英矩=(24)=祖国では誰も知らない歌姫ソーニャ=日本ではボサノーヴァのパイオニア

ソーニャのデビュー写真(1967年、提供コンチネンタル・レコード)

小野敏郎氏の英断で20歳のソーニャを日本へ

 「日本でのボサノーヴァ普及に貢献したブラジル人は誰か」と訊かれたら、即答に詰まるであろう。多くの著名アーティストが1960年代から訪日しているし、レコードも沢山制作されたからである。
 ボサノーヴァのブラジルのミューズと言えばナラ・レオン、米国ではアストラッド・ジルベルト、日本では小野リサの名が代表的だが、日本に住みついてボサノーヴァ振興の下地を固めたパイオニアはソーニャ・ローザなのである。
 ソーニャ・アンジェリカ・カルヴァーリョ・ローザは、1949年10月17日サンパウロ市に生まれ、父親オラーヴォ氏は有名な競馬騎手だった。彼女は子供の頃から歌が好きでギターなど爪弾いていたが、中学校を出てから作詞作曲も始め、18歳の時にリオのポピュラー音楽コンクールに入賞して1967年、国内大手のコンチネンタル・レコードからLP「ア・ボッサ・ローザ・デ・ソーニャ」が発売された。全曲の半分は自作曲というアルバム発売後はテレビやショーで活躍するようになり、当時全盛だったソング・フェステイバルにも参加している。
 そんな人気上昇の新進歌手を大阪万博EXPO70へ出演させようと日本招へいを申し込んだのが、当時サンパウロでナイトクラブ「イチバン」を経営していた小野リサの父親、小野敏郎氏なのである。ソーニャの両親は20歳の娘を地球の反対側へ旅立たせるのに反対したが、自身も不安で迷っていた彼女をはげまして渡航を勧めたのは父親の友人でソーニャの作曲を管理していたアレキン音楽出版のコリスコ社長だった。
 彼はブラジル作曲家協会UBCの日本代理人、的場実氏の友人だったから日本の音楽産業界の実情をよく知っていて、ブラジルで下火となったボサノーヴァが日本では好まれているからタイミングが良いと判断したのである。
 当時ボサノーヴァ本場のリオでは、まだ誰も日本のポピュラー音楽市場に見向きもしなかった。リオ・デ・ジャネイロ州内入植の日本人移住者は少数で、日本人は農業のエキスパートとして知られている程度だったから無理もない。
 それに反してサンパウロ州のブラジル人は大なり小なり日系人と関係があるので日本に対する偏見は無いのである。これが両州の文化圏の相違であるが、情報が発達した現在はギャップが少なくなった。

ナベサダと全国ツアー、「イレブンPM」出演

 1969年、日本へ着いた当初のソーニャはカルチャーショックとホームシックで泣く日もあったが、運好くテレビ番組「ミュージック・フェア」に出演してから渡辺貞夫クアルテットのレコーディングに招かれ、ナベサダさんと全国ツアー公演に参加することになった。
 これがキッカケとなって日本各地にブラジル音楽ファンが増えたのである。小柄で可愛らしく、ソフトで甘い歌声は日本人の好みにピッタリ合ったので、小野さんとコリスコ社長の推薦は正解だった。人気が出てきたのでテレビ番組「イレブンPM」や大橋巨泉のラジオ番組にもレギュラー出演するようになった。
 ソーニャが踊るオーソドックス・サンバのステップを、日本人はボサノーヴァだと思って社交ダンス講習会に引っ張りだこになった。1971年4月、新宿のダイアモンド・ビル3階にオープンしたミュージック・レストラン「グリーン・グリーン」のこけら落としショーに選ばれたソーニャは、これが縁でオーナーの亀井氏と結ばれるようになった。
 私はこの店で在サンパウロ総領事館に勤務していた中森友子副領事とバッタリ出会って、彼女が「あたしが仲人みたいなものなのよ」と言ったので経緯を知った次第である。

1971年、新宿グリーン・グリーンでソーニャとコパ・トリオ(撮影:鍛冶敬三)

日本のブラジル音楽界に図りしれない影響

 ここで特筆すべきソーニャの音楽交流上の功績を紹介しておこう。それはボサノーヴァ誕生地と呼ばれるコパカバーナのベコ・ダス・ガラファス路地でミルトン・バナナやベースのフォゲイラと共に出演していたピアニスト、トニーニョ・デ・オリベイラのコパ・トリオを「グリーン・グリーン」に契約したことである。
 それまで日本ではセルジオ・メンデスやマンフレッド・フェストのボッサ・リオを米国から短期間ショーとして呼び寄せたことはあるが、本場ブラジルのピアノ・トリオが新宿のレストランで毎晩味わえるなんて初めてだった。
 だから一般客よりも主にジャズ系のミュージシャンや女性シンガーの間で評判が立った。これが日本のブラジル音楽界にどれだけ大きな影響を与えたか計り知れないだろう。ブラジル音楽評論家の大島守氏は勿論のこと、帆足まり子(ラテン歌手)、阿保郁夫(タンゴ歌手)、寺部頼幸(ハワイアンギター名手・ブラジル内長期公演した)、小谷充(編曲家・横浜翠嵐高校OBで私の後輩)など、他分野の有名人諸氏が大勢聴きに来た。小谷氏は「リズムのノリが違う。やっぱりモノホン(本物)ですね」と感心していた。
 日本語が堪能になった彼女はフジテレビ系「ナイト・ショー」のレギュラーとして人気が上がり、テレビドラマ「遥かな坂」のテーマ曲や日本歌謡曲も手掛けるようになった。このようなソーニャ・ローザの活躍ぶりが本国でトピックにならなかったのは何故だろうか。
 芸能関係ニュースの中心地リオのマスコミにとって、本国で知名度が低いブラジル人歌手が日本でいくらヒットしても興味を引かないのかもしれない。1977年に偉大な歌手エリゼッチ・カルドーゾが日本公演から帰って、「日本人バンドがサンバをうまく弾くことやボサノーヴァの人気の高さをリオのジャーナリストやミュージシャンにいくら説明しても分かってくれない」と私にこぼしていたくらいだから、カリオカ文化圏の人たちの日本に対する芸能面での関心度はそんな状態であった。

「ボサノヴァの女王が帰ってきた!」

エイベックス・レコードの表紙(2006年)

 ソーニャはナベサダ氏と共演後、当時新進ジャズピアニストとして注目されていた大野雄二氏とレコーディングを主とした活動を始めた。しかし、工業企業家中田氏と再婚した彼女は主婦として子育てに専念するようになり、不規則なライブ出演生活から少しずつ遠ざかり、1990年代以降は芸能界から姿が消えてしまった。
 その後、長男のタロー君が成長してDJとして成功しサウンド・プロデューサーとして独立してから2006年に、ご主人中田氏のイニシアチブと温かい思いやりによって27年ぶりのCD制作が実現したのである。
 このアルバムは実に豪華なレコーディング・メンバーである。世界的名声のセーザル・カマルゴ・マリアーノがアレンジとディレクターを担当して、イヴァン・リンス、オスカール・カストロ・ネーヴェス、ロメロ・ルバンボなどが共演している。そしてロサンゼルス録音では24名のストリング・オーケストラやバックコーラスを入れたゴージャスな構成なのである。
 エイベックス・レコードは「ボサノヴァの女王が帰ってきた!」というキャッチフレーズで大々的に宣伝し、発売記念コンサートはブルーノート東京で2日間、米国からオスカール・カストロ・ネーヴェスとロメロ・ルバンボ、ブラジルからはジャイール・ロドリゲスの息子、ジャイールジーニョ、ウイルソン・シモナルの息子、シモニーニャが招かれて出演した。
 レコード・ジャケットの日本語解説を担当したボサノヴォロジア社の板橋純プロデューサーは「老いを全然感じさせない幸福感にあふれた様子の良いステージだった」と語ったが、後になってソーニャは「録音とブルーノートに参加したブラジル人全員にレコードを渡して本国で宣伝してくれるように頼んだが、全然音沙汰が無く何の反響も返ってこなかった」と嘆いていたそうである。

自宅の庭で愛車のフェラーリ高級車テスタロッサとソーニャ(本人提供)

 現在、彼女は目黒の豪邸でご主人とヒッソリ老後生活を享受している。それにしても長年の間、母国ブラジルのソーニャに対する無視とも言える扱いは如何なる動機なのだろうか。故郷を後にした当時のソーニャを知っている私は、以前彼女が送ってくれたハワイの別荘で写した家族ヴァカンスの写真を見ながら「よくやった」という思いでいっぱいである。
 ここで私はお粗末ながら賛辞の句を呈したい。

東の国で風雪に耐え
あざやかに咲いた一輪の花
ローザ(バラ)よりも美しく
その名はソーニャ

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