特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=千年に一人の歌手 エルザ・ソアーレス永眠=坂尾英矩

エルザと演出打ち合わせする筆者(篠崎勝利氏撮影、著者提供)

 「千年に一人の歌手エルザ・ソアーレス永眠」
 これは有名なリオの黒人女性サンビスタ、エルザ・ソアーレスが1月に91歳で老衰死した際の記事のタイトルだ。
 私は1956年に着伯してから三人のトップ歌手、エリス・レジーナ、エリゼッチ・カルドーゾ、アンジェラ・マリアの死亡記事以外に、エルザのように大きく扱われた例を見たことがない。大手新聞フォーリャ・デ・サンパウロは1頁大6枚にわたって報道していた。
 彼女が大きく取り上げられた理由は、貧困からのし上がった個性の強い黒人女性歌手というだけではなく、次のような要因があると思う。

(1)芸能界入りしてから今日まで一貫して貧富の差、人種差別、女性蔑視などに対してプロテストの声をあげてきた闘士であるが、政治色がないので多くの人に受け入れられた。
(2)彼女の声が非常に似ていると評判になった米国のジャズ・トランぺッター、ルイ・アームストロングが訪伯した時に、エルザを是非ともアメリカへ連れて行きたいと申し出たがそれを断ったという逸話。
(3)サッカーの王様ペレも尊敬するガリンシャ選手の夫人だったので、しばしばマスコミ取材の的となった。
(4)死ぬ数日前までテレビ番組の収録に車椅子で参加し、歌っていたエネルギッシュなカリスマ性。
(5)今世紀に入ってからも懐メロ歌手にとどまらず若者と一緒にロック、パンク、ラップなどでプロテスト活動を続けた進取的パワー。

 1982年正月、私はジャパンFMネットワーク(JFN)でエルザ・ソアーレスが出演する1時間番組の制作を、東京ガゼッタ社横山暎子社長(元ニッポン放送アナウンサー)から依頼された。
 この番組はFM東京を主として大阪、福岡、愛知、愛媛各地FM局の全国ネットで放送する新企画で、録音チームは元TBSテレビ技術部の篠崎勝利ディレクターと日本で音響技術を研修したフラビア・カラビ技師という最高のメンバーだ。
 場所はサンパウロの有名シュラスカリア「バンブー」という、名前のとおり竹と木で建築されたライブハウスで、設備の良いステージが整っていた。ホールはかなり広かったが、ふたを開けてみたら定員の半分位300人ほどの客足だった。
 こんな有名な歌手がリオから伴奏バンドも連れて来たのにどうして満席にならなかったかと言うと、当時はボサノーヴァが消えた後、ロックと電気楽器の台頭によるポピュラー音楽界の過渡期で、いわゆる伝統的音楽の暗黒時代だったのである。だから客の顔ぶれは殆ど中年以上で若者は少なかった。
 先ず司会者が「今から国有財産のサンビスタ、エルザ・ソアーレスのショーを開幕します。本日のステージは日本のFM局から放送されます」と言ったので、会場の我々にスポットライトが当たり大きな拍手が沸いた。
 プログラムはエルザの日本語挨拶「ミナサン、コンバンワ」から始まり、カーニバル・マーチで最高に盛り上がって台本通り無事に終了した。

エルザ本邦初レコード、1980年2月25日発売、トリオ・レコード社広告、ライナーノーツは中村とうよう(著者提供)

 楽屋でエルザが我々スタッフの手を握って「ありがとう、こんな素晴らしい企画をしてくれるのは日本人だけよ」と言ったのが忘れられない。その言葉の裏には、伝統的音楽を尊重しないブラジル芸能界の現状に対するエルザの鬱憤がこもっているのが、ひしひしと感じられたので、我々は良い文化交流になったなと非常に嬉しかった。
 そして最後に「この放送を天皇陛下に聴いていただけたら最高ね」とエルザは笑ったのである。
 彼女は、1967年に上皇陛下が皇太子時代にご夫妻で初訪伯された際、グァナバラリオ州知事(当時)主催の歓迎晩さん会で御前演奏をしたことがあるのだ。おそらくこの思い出が彼女にとって非常に強く印象に残っていたのだと思う。
 去る1月20日、エルザは孫娘を呼んで「私はもうすぐ死ぬよ」と言ってから40分後に眠るように息を引き取ったそうである。死ぬまで戦い続けた闘士にふさわしい崇高な最期だ。そして、その日が彼女の愛した夫ガリンシャ選手の命日だったのは単なる偶然とは思えない。
 エルザの大ファンで彼女を「最高のサンバ歌手」と評した有名音楽評論家の故中村とうよう会長は、今頃あの世で彼女との再会を喜んでいるに違いない。

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