《ブラジル特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=14=ハワイアンギターを植え付けた開拓者―海軍大尉 寺部頼幸(てらべよりゆき)

ヨリ寺部追悼LP盤の表紙

突然ブラジル移住したギターの名手

 「ゼロ戦にギターかかえて飛んでるんじゃ勝てるわけねえよ」   
 これは戦地から復員して来た寺部頼幸海軍航空大尉が苦笑して吐いた言葉である。彼は立教大学から第13期予備学生として海軍へ入隊した特攻帰りだった。
 私が寺部さんの名人芸ギターを知ったのは進駐軍放送と呼ばれた東京WVTRラジオ局の番組「ハワイ コールズ」である。ハワイアン・スチールギターだけでなく、6弦のジャズギターでもセンスの良い演奏は誰でも魅惑される味があった。
 終戦の翌年4月に結成されたヨリ寺部のハワイアンバンド「ココナツ・アイランダース」は、たちまちトップバンドとなって、NHKラジオから全国に流れたのである。終戦直後の有名な歌手やミュージシャンで寺部さんから教えを受けた者は少なくないし、一般人のファンも多かった。
 そんな寺部さんは、テレビ時代が始まる前に突然ブラジルへ移住してしまったのである。丁度日伯移住協定が再開された直後で、農業か工業技術者にしか永住ビザが下りないのに、夫人と長男を連れた一家での渡航だったから、誰でも「なんで?」という疑問が先に立った。
 その上、彼が著名音楽家なのを百も承知の駐日ブラジル大使が、英語のブラジル案内書に「成功を祈る」とサインして渡したのだから当時はおおらかな時代だった。
 私がサンパウロで日本語アナウンサーをしたり、のど自慢の伴奏をしていた或る日、突然現れたヨリ寺部の来訪は信じられなかった。
 「君は日本でウクレレをやってたと聞いたのでね、ビータ(演奏旅行)の仕事があるので一緒にやってくれないか」と頼まれた。寺部さんと仕事ができるなんて夢のようで、二つ返事をして1958年11月から約一年間ブラジル国内巡業することになった。

 ヨリ寺部に目をつけたのはブラジルで有力な興行師、ユダヤ系ウルグアイ人カッツ・ネルソンだった。彼は寺部さんに良い仕事を沢山取れるから日系人を集めてハワイアンバンドを結成してくれ、とオファーしたのである。
 何故ならば老獪なネルソンはハワイ人口の約30%が日系人であると知っていたので、本格的ハワイアンバンドがホノルルから初来演として売り込むもくろみだったのである。
 寺部みき子夫人はもともとプロのフラダンサーだから問題はないが、ベースは東京からジャズマンの塩田みのる氏を呼び寄せ、あとは日系人の現地調達だから演奏をまとめるリハーサルは大仕事だった。

 しかし寺部バンドマスターはハワイ語のコーラスや独特なダンスリズムなどを根気よく教えてくれた。そして出発前に契約書サインの時、カッツ・ネルソンは全員に伝えた。
 「一つだけ厳重に注意しておくが、君たちはハワイから来たことになっているからポルトガル語を話さないでくれ。英語か日本語で頼むよ」
 最初の仕事はコパカバーナの一流クラブ「フレッズ」と、1960年代までブラジルの音楽殿堂と呼ばれたラジオ・ナショナルの最人気番組「セーザル・デ・アレンカール」だった。
 ハワイから初の来演という宣伝のせいか、若い女性で超満員の大ホールを見て、バンドの日系2世ルイスは「ポルトガル語を話してよいならひっかけるのになぁ」と残念がっていた。

海軍仕込みのミュージシャン

リオのラジオ・ナショナル80周年記念文集(2016年)

 ヨリ寺部のリオ公演は2016年出版のラジオ・ナショナル80周年記念文集に4頁にわたって記載されている。クラブ・フレッズでは世界的なトリオ・ロス・パンチョスと一緒だった。
 後にトリオが日本公演の際に歌った日本歌曲は、フレッズの楽屋で寺部さんが彼らに丁寧に教えたレパートリーである。
 巡業中の寺部さんは、元海軍士官だから規律は厳しかった。一人が時間に遅れると「罰直(バッチョク)だ! 全員からギャラを引くぞ」と𠮟られた。
 しかし仕事場以外の寺部大尉は優しくて寛大だった。特に海軍の飯を一週間食った経験のある私を副官と呼んでくれて、ステージが早く終わると「おい副官、上陸しよう」としばしばさそってくれた。これは飲みに行こうという意味である。
 長い旅行中に若いメンバーの気が立って喧嘩になると寺部大尉は「おい、よせよ、ピーハウでいってこい」と笑っていた。ピーハウとは海軍用語で女郎屋の意味である。このフレーズは私の間違いで「ピーハウへ行って来い」ではないかと思われるだろう。ところが海軍では「いって来い」は「行って来い」ではなく、もう一つの「いって」なのだから「へ」が「で」になるわけだ。
 長い演奏旅行が終わってサンパウロへ帰ってからも、寺部大尉はブラジル音楽の良いライブ店を探して私を上陸にさそってくれた。中でもポリーというサンパウロでただ一人のハワイアン・スチールギター奏者と仲良くなって時々会っていた。
 ポリーは寺部さんのモダン和音のポジションやカッティング奏法、バーの使い方など熱心に観察していた。特に何コーラス繰り返してアドリブを弾いても、あきない詩的な美しさがあるのには感服して大ファンになり、メストレ(先生)と呼んでいた。ポリーは多くのレコードを吹き込んでいるが、メストレ・ヨリと知り合う前と後では演奏スタイルに明らかな違いが感じられる。

50過ぎでひっそりと亡くなる

日本を愛した米国人シンガー。ジャズファンおなじみのドリー・ベイカー(志摩夕起夫 提供)

 日本に帰国してからの寺部さんは、もっぱら作曲に熱を入れるようになった。だが、持ち前の江戸っ子気質で自作品の宣伝売り込みなどしなかったので、多分テレビ時代になってから急激に変化した芸能界に順応できなかったのだろう。
 毎晩バーで好きな歌を歌ったり、弟の震(しん)さんと共演するのが楽しみだったが、昭和47(1972)年1月5日鎌倉でひっそりと亡くなってしまった。まだ働き盛りの50を超えたばかりだったが、彼の死は私にとって一時代が終わったかのような大きなショックだった。
 同月の29日には東京プリンス・ホテルで昔仲間が集まって追悼演奏会が行われた。中でも東京在住で日本人に最もなじみ深い米国ジャズシンガー、ドリー・ベイカーがヨリ寺部自作「おやすみなさい」を歌ったのが胸を打った。
 寺部さんが音楽界で如何に慕われていたかを思い出させる話がある。私がサンパウロ市の在外公館勤務時代に、日本のある政治家の便宜供与アテンドをした時の事である。この方は関西地方のえらいさんだったから、私のような下っ端に対して最初は高飛車な態度だった。
 だが、世間話をしているうちに若い頃ハワイアンギターを弾いていたと話したので、私が「実は私はココナツ・アイランダース最後のウクレレです」と言ったとたんに彼の目が輝いたのだ。
 そして別れる時に私の手を握って「思いがけない人に会えて良かったです」なんて、態度が一変したので私は寺部さんの名前のお陰だとつくづく感じたのである。そばにいた総領事が驚いていたのも忘れられない。
 訃報を聞いたポリーはメストレの死を嘆いて言った。「ヨリはブラジルへハワイアンギターを植え付けた開拓者だったよ」
 あくまでも美を追求した音楽家、ヨリ寺部は、マーケティング一点張りになってしまった芸能界へ、死ぬ前に苦言を残している。
 「ギターをかかえて好い曲を書いたって勝てるわけねえよ」

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