特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=4=幻のコルネット奏者マサオ・ウコン

「ウワー! 幻の右近さんだ」

1961年サンパウロ・デキシーランダーズ練習場にて(左から2人目は筆者、5人目が右近さん、筆者提供)

 ブラジルジャズ界には外国人二人の名前が際立っている。米国人ブッカー・ピットマンと日本人右近雅夫である。
 私は仕事の関係で日本から訪伯する音楽関係者と接することが多いが、関西出身の高年者から必ずと言ってよいくらい受ける質問は「トランぺッターの右近さんはどうしてますか」なのには驚かされる。
 大分以前に邦字誌「オーパ」の細川多美子編集長とサンパウロのジャズ・ライブハウスへ行った時、彼女はステージを見て「ウワー! 幻の右近さんだ」と叫んだのである。
 このいきさつをたどるには、右近さんの渡伯前から話を始めなくてはならない。
 右近雅夫、1931年神戸生まれ。右近家は江戸時代の北前船主だったから豪商の御曹子である。終戦で解放された敵性国家の伝統的デキシーランド・ジャズに魅惑されてトランペットを習い始め、関西学院商科在学中に学生たちで「ハート・ウオーマーズ」というデキシーランド・バンドを結成してリーダーのコルネット奏者となった。
 もともと関西はジャズが盛んで、大正13(1924)年には阪神地区のカフェやダンスホールで日本人バンドが演奏していたのである。
 しかし学生のデキシーランド・バンドは、1953年の関西学院大学グループが日本で最初だった。だから、ジャズ評論家の草分け、野口久光、油井正一両大家の目にとまり、強力なバックアップとなってラジオやコンサートで活躍するようになった。
 名声が高くなってきた1955年、思いがけない右近一家のブラジル移住はジャズ界の大きな驚きであった。
大阪商船サントス丸が神戸を出港して横浜に寄港した日の晩は、油井先生をはじめ日本一のデキシー・バンド南里文夫とホットペッパーズのメンバーが銀座並木通りにあったジャズの殿堂「テネシー」に集まり、右近さんを招待して送別ジャム・セッションを催したのである。

サンバの国ブラジルへ移住

パンチあふれる喜寿の演奏会(ブンバ誌細川多美子撮影)

 ブラジルのサンパウロに落ち着いた右近家はマジック・インクの会社を設立した。しかしラッパが吹きたくてうずうずしていた彼にとって、デキシーランド・ジャズなんて当時のブラジルでは聴けないのが淋しかった。
 ところがバンドマンの世界は狭いもので、日本から若いジャズマンが移住してきたというニュースが知れ渡り、当地のアマチュア・グループ「パウリスタニア・ジャズバンド」から招きを受けたのである。
 このバンドのクラリネット奏者には奇しくも1930年代にニューヨークでルイ・アームストロングなどと仕事をしていた一流ジャズマン、ブッカー・ピットマンが加わった。
 彼はヨーロッパ演奏旅行の帰途1935年にブラジルにやって来て以来、南米諸国へ出かけてから消息不明となって死んだと噂されていた。ところが、パラナ州ロンドリーナで農業の下働きをして食いつないでいたアルコール中毒のブッカーを、パウリスタニアの仏人トロンボニスト、フィリッペが見つけ、サンパウロへ連れ戻し面倒を見て回復させたところだったのである。
 日米のジャズスターの参加でパウリスタニアは魚が水に帰ったように活気に満ちて、観光広告業界でも扱われるようになり人気が上昇した。名前も「サンパウロ・デキシーランダーズ」と変えて有名になった。
 それからの右近氏はデキシーランド一筋に身を捧げる人生を歩んできたわけである。あの時代はブラジルでも映画やレコードなどで米国文化の影響が強くなり、学生やエリート階級の間ではアメリカ音楽愛好者が増えている時期だったからタイミングが良かった。

ブラジルにデキシーランドを植え付けた男

83歳最後の演奏姿(マリア・アントニア夫人提供)

 サンパウロ・デキシーランダーズのヒットによって、アマチュア・ミュージシャンによるデキシースタイルのバンドが続々と結成された。
 しかしマサオ・ウコンをリーダー兼アレンジャーとするサンパウロ・デキシーランダーズは、このジャンルでトップの名声を保っていた。ブラジルで著名な音楽評論家ズーザ・オーメン・デ・メーロや、サンパウロ州立ジャズシンフォニー・オーケストラ指揮者だったマエストロ・ネルソン・アイレスも、このバンドのメンバーだったのは知られていない。
 右近さんのエネルギッシュで顕著な活動はブラジル音楽界でも認められ、エドアルド・ヴィドシッキ著『サンパウロ・ジャズ史』(1966)とスイング・ジャーナル社発行『世界ジャズ人名辞典』(1981)には業績が記載されている。
 1961年の大新聞フォーリャ紙主催のジャズ・フェスティバルで右近さんが金賞を受けた際の演奏に、私も参加した貴重な思い出がある。
 1980年ジャパン・デキシーランド・ジャズ・フェスティバルに日本へ招待されて以来、1983年から2008年まで神戸で開催されるジャズ・ストリートというイベントには毎年のように自費で参加しているし、神戸大震災の直後には故郷慰問演奏を企画して実施した。
 1997年にサンパウロのジャズ・ライブハウス「ブルボン」に出演した折には、訪伯していたトニー・ベネットが聴きに来て「ブラジルでアメリカの伝統的オリジナル・ジャズが聴けるとは思わなかった」と感激していたそうである。
 ブラジルで一流アルトサックス奏者として活躍し、現在サキソフォーン教授のアルゼンチン人エクトール・コスティータ先生にマサオ評を聞いてみた。
 「ブラジルでは優秀なジャズマンの多くはバカテクや耳の良さでうまいプレーをするが、マサオのすごさは体から出るノリで吹いているから本物なんだ。彼はブラジルにデキシーランドという作物を植え付けた開拓者だね。実は私もウコン農場の農夫だったんだよ」と笑った。

マサオ画伯の自画像(マリア・アントニア夫人提供)

 右近さんの偉大さは、自分の会社の利益をコンサート経費や20枚ほどのCD制作と無料配布に充てた点と、どんなに小さなパーティや演奏指導でさえもギャラとは関係なく足を運んだ業績である。その情熱は病みつきの「おたく」ではなくて、むしろ「宣教師」と呼んだ方が適切かもしれない。
 残念ながら2014年以後、右近さんは健康上の理由で演奏活動が不可能であるが、小さな分野とは言えブラジルにおけるデキシーランド・ジャズ発展の原動力となった日本人パイオニアの名は日伯交流史に大きく残すべきであろう。

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