コラム「日伯音楽交流史」=No.1=日本初のプレス盤ブラジル曲 坂尾英矩

ラティーナ誌1988年3月号の表紙写真(坂尾さん提供)

 戦前の日本でブラジルと言えばコーヒーとアマゾンという程度のイメージしかなかった。初期の日本移民が入植した頃はレコードなんて一般化されてなかったから随分古い話のように感じるが、その後すぐにレコードや蓄音機が開発されて78回転のSP盤全盛時代となった。
 もう40年くらい前になるが、日本におけるブラジル音楽評論の草分けである横浜の大島守氏が私にポツンともらしたのである。
「君、日本で最初にプレスされたブラジル曲を知ってるかい? カルメン・ミランダが歌った『アロー、アロー』だよ。俺はね、防空壕で竹製針の手巻き蓄音機で聴いていたんだ」
 最初は冗談かと思ったが、考えてみれば彼より年下の私だって竹針の手巻き蓄音機を愛用していた年代である。
 そこで興味が湧いて古い資料を色々調べてみたら、何と1938年6月18日付のガゼッタ・デ・ノティシアス紙にファウストゥス東京通信員が書いた記事を引用した文献が見つかった。
 それは1978年アベル・カルドーゾ著『カルメン・ミランダ』である。新聞記事は日本で最初のブラジル・レコードについてだから、タイトルが「メイド・イン・ジャパン」となっている。
 通信員によると東京の喫茶店などでしばしばカルメンの歌声を耳にするので、レコードを見せてもらったら黒い盤に金文字で日本ビクターとあったので間違いなく日本製だと感激したそうである。
 日本ビクターは販売数の予想がつかないので初版1500枚だけプレスしたが、たちまち再版を重ねて2万5千枚の売り上げとなった。SPレコードとしては大ヒットである。

「アロー、アロー」はリオの有名な作曲家アンドレ・フィーリョの1933年作のサンバだ。カルメン・ミランダの世界的名声は1939年に渡米してハリウッド映画の歌う女優として成功してからなので、日本盤発行の1938年には、ブラジルで売れっ子でも日本では無名同様だった。
 当時の日本ではラテンアメリカ音楽はぺルー、キューバ、メキシコ等、いずれも欧米のマスコミ、メディアを通じて入ってきたので直接の交流はなかった筈である。
 販売数の予想が分からない物に投資するのは危険な賭けだから、日支事変中にもかかわらず製作販売に踏み切ったのは日本ビクターの英断であった。
 しかしその後すぐ大東亜戦争が勃発して国際交流が途絶えてしまったのは誠に残念である。終戦後はカルメン本邦招へいが再度打診されたが、1955年に彼女が極度の疲労と薬品のオーバードーズ(過剰摂取)で急死してしまった。まだ46才の若さだった。
 1977年にブラジルの大歌手エリゼッチ・カルドーゾにほれ込んで日本公演を催した小澤音楽事務所の小澤惇社長は「エリゼッチの前にカルメン・ミランダを招待したかったね」と述懐したことがある。

1943年にニューヨークサンデーニュースによって公開されたカルメンミランダの写真(New York Sunday News, Public domain, via Wikimedia Commons)

 かって私はブラジル地理歴史学会の著述家、佐藤常藏さんと在サンパウロ総領事館ビルにあった協栄レストランで時々昼食を共にしたことがある。話がたまたまカルメン・ミランダ死後30周年に及んで、佐藤さんは「カルメンと言えば思い出しますよ」と語りだした。
「1938年11月中旬にね(先生は歴史の大家だけあって年月日の記憶力は並外れだった)、コンゴーニャス空港で到着したカルメンに出会ったのですよ。私は大勢のファンや新聞記者のもみくちゃに巻き込まれ、カルメンとすれ違って彼女のスカートと私のズボンが触れ合ったのです(先生は謹厳居士なので表現がソフトだが、おそらく体がぶつかったのだろう)。だから〝袖触れ合うも他生の縁〟というわけですよ。でも、あれがカルメン・ミランダを目にした最初で最後でした」と笑った。
 私にとっては、あのこわい目つきをした佐藤さんが、ニヤッと微笑んだ顔を目にした最初にして最後だった。

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