特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=サンパウロ市 坂尾英矩(ひでのり)=2=ボサノーヴァのライブ公演は=米国より日本が先だった

「1962年日本公演のトリオ・タンバタジャ」(提供はバンドリーダーのオデシオ・コドーニョ)。背広姿…

 ボサノーヴァが世界的に認知されたのは、1962年11月に、かの有名なニューヨーク・カーネギーホールでコンサートが行われたのがきっかけだというのが、世間一般の認識だろう。
 しかし、それ以前に、日本では東京や大阪などの大都市をはじめ、北海道から九州まで、この新しいサウンドの公演が行われ、人気を博していた事実を知る人は少ない。なにしろ60年前の話で、現在のような情報化社会ではなかったから無理もない。
 この話の始まりは、「日本のボサノーヴァの女王」こと小野リサの父親、敏郎氏からである。彼は東京の由緒ある家柄の御曹司であるが、ブラジルに移住した。何故をもって決心したかは誰も知らない。移住者同士「あなたは何県ですか」とよく訊くが「何故ブラジルへ来たのですか」と質問する人はいないからだ。
 敏郎氏は冒険好きなアイデアマンだった。ブラジルの日本料亭は日本人相手の商売なので、見込み客は、ブラジル人口の1%に満たない。それなら非日系人を対象に日本式ナイトクラブをやれば必ず当たる、と思い立って実行した。
 敏郎氏はサンパウロ市へ移住して直ぐ、空港に近い住宅地アベニーダ・セシにナイトクラブ「ブラックジャック」を開店した。辺りは商店も人通りもない閑静な場所なので目立たないように看板も出さなかった。遊び人は自家用車かタクシーで来るから宣伝しなくてもクチコミだけで充分であるとの判断だ。
 客に接するドアマン、ボーイ、バーテンからホステスまで日本人を揃えた「おもてなし」によるナイトクラブは、ブラジルでは目新しく、客足盛況となった。
 さて、ここからが本題。「ブラックジャック」は毎週のアトラクション上演のため、ヒルトン・ホテルで人気があったバンド「トリオ・タンバタジャ」と契約した。このトリオは当時世界的に有名なメキシコのトリオ・ロス・パンチョスと同様のスタイルをとるがレパートリーはブラジル曲が主であった。
 たまたま客の中にいたブラジル毎日放送の高橋祐幸社長がこのトリオに惚れ込み、大阪毎日放送本社の開局記念コンサート出演に強力な後押しをし、訪日コンサートが実現した。カーネギーホールでのボサノーヴァコンサートの一カ月前、1962年10月のことである。
 ブラジル芸能人の訪日は珍しかったので音楽使節として大きな話題となった。毎日放送が主催した歓迎レセプションは東京で一流のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で行われて報道陣が多く集まった。
 当時、記者団の持つブラジルへのイメージは「アマゾンジャングルの国」くらいのものだったから、音楽も当然プリミティブ(原始的)でアフロ的(アフリカ系)なものだろうという先入観があった。
 コンサート翌日の各紙記事の見出しを読むと、トリオ・タンバタジャが記者たちのブラジルイメージを大きく変えたことが伺える。

…と浴衣姿で観客を魅了した。(提供はバンドリーダーのオデシオ・コドーニョ)

 日刊スポーツ「若くてハンサム」、東京中日「甘くて魅力的なコーラス」、報知新聞「新しいリズム」、毎日新聞「スマートなソフトムード」。コンサートを経て記者団らはボサノーヴァの洗練されたモダンなハーモニーコーラスに魅了されていた。
 テレビ出演もスポンサーの毎日(MBS)は勿論、NHKをはじめ日本テレビ(NTV)、フジテレビ、東京放送(TBS)などの全国ネットで放映された。
 また、その年に大ヒットした橋幸夫と吉永小百合のデュエット「いつでも夢を」を日本語で披露したのも注目の的となった。
 これは小野さんがブラックジャックのショーの御愛嬌として教え込んだので、彼自身大好きだった鶴田浩二の「好きだった」もトリオのレパートリーにしたのが当たったのである。
 江利チエミ、中村八大、中嶋潤の諸氏などはタンバタジャの大ファンとなった。
 非常に好評だったので、大阪毎日のイベント終了後に共同企画社が全国ツアーを5ヵ月間も引き継いだ。
 リーダーのオデシオは日本語がかなりうまくなって、数年前に病身の彼を私が見舞いに行った時でさえ日本語で「ボク年とった。もうダメね」などと笑っていた。病床で彼がポツンと語った非常に興味あるコメントがある。
「僕はね、あの頃にボサノーヴァは日本で受けるようになる、と直感したんだよ。古いサンバやボレロなんかよりまだ知られていないボサノーヴァを歌った後の拍手の方が反応が強かったんだ」
 トリオのレパートリーには現在日本でもよく知られている「シェーガ・デ・サウダージ(想いあふれて)」「マニャン・デ・カルナバル(カーニバルの朝)」「エステ・セウ・オリャール(君の眼差し)」などが既に含まれていた。
 この3曲は作者トム・ジョビン、ルイス・ボンファがボサノーヴァ創成以前に書いた作品だが、新しいリズムにピッタリするのでボサノーヴァ代表曲のようになったのである。今考えてみるとオデシオの観察眼は鋭かった、とつくづく思う。
 「タンバタジャ」という言葉はトゥピー・グアラニー語で「愛の木」という意味である。今はもうタンバタジャは枯れ果てて、小野さんも高橋社長も亡くなってしまったが、御両人が植え付けた「愛の木」は日本の土地に定着して、すくすくと育っている。

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