特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(9)=日伯交流に長年貢献したジャズドラマー「ラッチ―ニョ」

ラッチーニョ(SESC Bom Retiro ” Estamos aí “.Foto; Régis Filho Out. 2012)

 2014年3月17日、サンパウロ市マンダキ病院でブラジルの名ジャズドラマーがひっそりと亡くなった。享年81歳。消化器ガンだった。
 その名はニルソン・デ・アルカンタラ・ペレイラ、音楽界では「ラッチーニョ(鼠小僧)」の愛称で親しまれていた。
 ミナス・ジェライス州ウベルランディア市出身の彼は、典型的なミナス人気質「むっつり」な性格で、自己宣伝などしなかった。常にバックステージを歩んだので、マスコミにも名前があまり出ず、彼がジャズドラマーとしてブラジル有数の名手だったことは知られていない。
 かって米国のアート・ブレイキーが彼を抱きしめて「ユー・アー・マイ・ブラザー」と言った時の写真があるが、ラッチ―ニョは誰にもそんな話をしなかった。
 ところが、そんな彼には日伯交流事業に多くの業績を残した経歴があるのだ。その発端は何とハワイアンギターの名手寺部頼幸氏のアドリブだ。
 時は1958年12月30日、所はサンパウロ州ジャボチカバル市社交クラブのダンスパーティだった。タバジョース・オーケストラの演奏に特別ショーとしてブラジル巡業中のヨリ・テラベとココナツ・アイランダースが出演した時、フルバンドのドラマーがラッチーニョだった。
 仕事がはねてから彼はニコニコしながら私に話しかけてきた。私は寺部さんの巡業にウクレレ奏者として参加していた。
 彼は先ず「ハワイアン・バンドと聞いたのでハワイ人かと思ったら皆日本人じゃないか」と言ってから「スチールギターでジャズ的アドリブするなんて初めて見たよ」と感激して寺部さんの大ファンになっていた。
 当時サンパウロに住んでいた彼はそれ以後、日系人社会と交流を始め、離婚後には日系娘と一緒に住んでいた。
 日本から芸能人の訪伯ラッシュが始まった1960年代。日本語放送局の仕事をしていた関係で、いつもA&Rマネジャーを任されていた私は、ラッチーニョに出演を頼むこともしばしばだった。
 1970年の美空ひばりブラジル公演の際には日本からビッグサウンズのリーダー、中西義宣ドラマーが付き添ってきたので、ラッチーニョはパーカショニストとして美空ひばりらと共演した。
 公演期間中、ラッチーニョはブラジル音楽ファンになった中西さんに色々なリズムの奏法をみっちり仕込んで2人は意気投合し、親友となったのである。
 小野リサの父親敏郎氏とは小野さん経営のクラブ・イチバン以来の親交があったので、後に四谷のレストラン・サシ・ペレレーに招聘されたこともある。
 サンパウロの日本商社マンが常連だったクラブ「モンブラン」が1968年に契約した、ブラジル音楽史上最高のアルトサックス奏者「カゼ」のクアルテットのドラマーはラッチーニョだった。ママさんがジャズファンの一般ブラジル人客が増えました、と言ったのが思い出される。
 日本でのボサノーヴァ普及の草分けソーニャ・ローザが、1971年に開店した新宿のライブ・レストラン「グリーン・グリーン」に、リオの有名な「ベコ・ダス・グァラファス」で弾いていたピアニスト、トニーニョ・オリベイラらのバンド「コパ・トリオ」を招へいして行った公演のドラムもラッチーニョだった。
 その頃、ブラジルから長期滞在してくるジャズサンバ・トリオなど珍しかったので、ミュージシャンやボサノーヴァ志望の女性歌手たちがわんさと聴きに来た。特に帆足まり子、草葉ひかるなどのラテン、ジャズ系の女性歌手の間で高い人気が出て、草葉さんはしばしば歌いに来ていたが、ある夜「ニルソンさんのリズムに乗るとすごく気持ちよく歌えるわ」と言ったら、ブラック・ユーモアが得意だった彼は真面目な顔で答えた「僕に乗ればもっと良い気持ちになるよ」。
 その後、日本のトップジャズバンド「ニューハード・オーケストラ」のブラジル曲レコーディングに参加したり、JAL日伯直行便記念トラベルフェアや木村じゅん子トリオでも活躍した。

シーザーパーク・ジャズナイト。1986年4月30日、左から歌手の笈田敏夫(愛称:げそ)、ラッチーニョ、著者、一人置いて世良譲、与田輝雄

 何といってもドラマーとして最高の思い出は、1986年4月30日にサンパウロの一流ホテルで開催されたシーザーパーク・ジャズナイトで、日本の著名ジャズマン三人との共演であろう。ジャズ好きの小野総領事が後援名義を許可したほどの重要イベントである。
 メンバーは歌手笈田敏夫(愛称:げそ)、テナーサックス与田輝雄、ピアノ世良譲のベテラン諸氏だったから戦後移住者、商社駐在員やブラジル人ジャズファンにとって又と無いコンサートだった。

日本最古のジャズ喫茶店、横浜野毛町「ちぐさ」を感慨深く見つめるラッチーニョを撮影中の著者(1996年3月)

 彼の最後の日本公演は1996年日伯修好百年記念と長良川国際会議場オープンを兼ねて岐阜市が主催したブラジル音楽祭で、ジャネ・ドゥボックをメイン歌手とする豪華なコンサートに華を添えた。
 しかし終了後にラッチーニョは、「一行と一緒に帰国したくない。横浜にしばらく滞在したい」と言い出した。その目的は親友だった音楽評論家大島守氏が脳梗塞で入院中なので見舞いたいのと、日本の古いジャズマンや愛好家ならだれでも知っている横浜野毛の日本最古のジャズ喫茶店「ちぐさ」を訪問したいからだった。
 「ナポリを見てから死ね」という言葉があるが、ラッチーニョにとっては「ちぐさを見ずに死ねない」のであった。この話に感動した横浜の建築家木下昌彦氏が心を動かされて、「ホテルなど滞在費は自分が持つから心行くまで横浜を楽しんでください」と申し出てくれたのである。
 港を一望できるワシントン・ホテルで彼は「こんなに幸福感を感じたことはない」と感激していた。また木下さんは彼を大島さんの病床にも連れていったが、大島さんは会話不可能でラッチーニョを見て涙をこぼすばかりであった。

長良川国際会議場オープンと日本ブラジル修好100周年を記念したブラジル音楽祭のポスター

 晩年のラッチーニョはミナス州グアシュペ市文化センターで若者の音楽指導に励んでいた。2012年にはSESC文化事業団体から発行された「サンパウロを代表する器楽演奏家20人写真アルバム」に彼が紹介されている。
 同年に横浜の木下夫妻がブラジル観光旅行した際、ラッチーニョはご夫妻をグアシュペ市へ招待して接待した。市の文化局長がコーヒー協同組合会館を案内し、組合長や農業試験所長などの顔役が日の丸の旗を掲揚して木下夫妻を迎えた。
 同市に滞在中、木下夫妻の一切の面倒を見たラッチーニョは「自分が受けた恩の十分の一も返せないが、ミナスの田舎を見せることができたのは嬉しい」と言っていた。
 彼が胃腸の不調を訴えて入院する数週間前に会ったが、虫が知らせたのか、彼は別れる時に「君と知り合ったのは神の導きだと思ってる。自分の人生で幸福な瞬間はいつも日本と関係あるからね」と言ったのである。56年間の交友だった。
 知日音楽家の死は非常に惜しまれるが、彼が蒔いた種は日本で着実に育っている。

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