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特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(5)=流星のように消えた=日系スターBubby

ブラジル人レコード会社が目を付けた日系歌姫

RGE時代のブビー

 今から50年前、鐘紡ブラジルの延満三五郎社長(第四代ブラジル日本文化協会会長)が、日本の新聞特派員から「日系人はブラジル社会に溶け込んで大臣から犯罪者まであらゆる分野に進出していますが、女優やモデル業界などに居ないのは何故ですか?」と質問を受けた。
 延満社長は「ブラジルに日系人が多いと言っても、全人口の1パーセントに過ぎません。アジア系の容貌では、いくら美人でもアイドルになるのは難しいでしょう」と答えた。
 当時の日本は見事な戦後復興を成し遂げ、新幹線敷設や東京オリンピック開催、カメラ、トランジスターラジオ製造などで世界に知られる存在となり、ブラジル人も日本に注目し始めていた。
 ブラジルにいる100万人の日系人のほとんどは中産階級で購買力が高い。ブラジルの大手レコード会社RGEは日系社会を優良市場と判断。日系の歌姫を育て上げようと計画した。
 サンパウロ州マリリア市のラジオ・クラブで歌っていたアマチュア歌手、林オルガは、近くのポンペイア市出身で幼い頃から歌手を目指す田舎娘だった。
 オルガの歌唱力とルックスの良さに目を付けたRGE社は、彼女をスカウトし、Bubby(ブビー)という芸名で、1967年にデビューさせた。RGE社はロベルト・カルロスの大人気テレビ音楽番組へBubbyを出演させたり、当時のトップバンド「オス・インクリーベイス」と共演をさせるなど大宣伝をしたが、レコードの売れ行きは芳しくなかった。
 ちなみにはBubbyという名前の由来は、日本でも「ウスクダラ」というヒット曲で知られた米人歌手・女優アーサ・キットが名付け親であると伝えられている。

才能はあるのにマーケティングを誤った?

 売り上げ不振の原因は、RGE社の制作スタッフに日系社会のポピュラーミュージック事情に精通している人がいなかったので、マーケティングを誤ったことが挙げられる。
 当時のブラジル日系社会は老若男女を問わず、まだ演歌のレコードが好まれている時代だった。その中でBubbyは、ビートルズ以来世界中の若者の人気をさらったロック、ポップのグループサウンズの伴奏で、欧米の流行曲をポルトガル語で歌っていた。
 RGE社は翌年、2枚目のレコードに期待をかけて、有名なポルチーニョ・オーケストラの編曲で録音したが、これもやはり選曲が適切ではなく、結果は期待外れに終わった。

オス・インクリーベイスが「本場のボサノバ」?

1960年代後半、テレビ出演時のブビー(本人提供)

 マーケティングの誤りと言えば、Bubbyと共演した「オス・インクリーベイス」のことも思い出される。同バンドは1968年に日本の本間興業の招へいで北海道から九州まで演奏旅行している。ブラジルのバンドは珍しかったので客入りは良かったらしい。北海道旭川の有名なスカラ座などは昼夜2回6日間の公演を満席にしたそうである。
 この興行の場合は日本側プロモーターの宣伝方針が的を外れていた。丁度ボサノーヴァ熱が上がってきた日本において、英米スタイルのグループサウンズ・ショーを行う「オス・インクリーベイス」を「これが本場のボサノバだ!」なんて大宣伝したのである…。まことに残念ながらオス・インクリーベイスの名は日本ではすぐに忘れられてしまった。
 ちなみに、オス・インクリーベイスは帰国してから当時の日本の流行歌「心の虹」や「サヨナラ」を日ポ両語で歌って好評を得ている。世界で坂本九の「上を向いて歩こう」より、「心の虹」の人気が高かった国はブラジルだけだろう。もっともその現象もバンドのネームヴァリューによるところが大きいことは間違いない。

「時には母のない子のように」を歌うも…

 Bubbyはシングル2枚でRGE社から契約を解除されてしまった。その後、RCAビクター社と契約し、日本でヒットしていた「時には母のない子のように」のポルトガル語版を発売した。選曲はよかったのだが、タイトルをポルトガル語にし、歌詞の翻訳をBubbyに任せてしまったことが原因となったのか、ブラジル日系社会からの支持は得られず、またしてもプロデューサーの企画ミスで売り上げは芳しくなかった。
 そしてこのシングル盤を最後にBubbyは芸能界から消えてしまった。私はたった一度だけレコード会社のセールスマンの紹介でBubbyとコーヒーを立ち飲みしながら話をしたことがある。掲載の写真はその際にもらったものだ。

日本初のボサノーヴァ女王になれたかも

1968年3月30日付北海道新聞

 Bubbyは日本で成功したいという希望を持っていたので、私は「それならばボサノーヴァ曲を有名ギタリスト一人だけの伴奏でポルトガル語で歌うのが最良の方法だ。例えばバーデンとビニシウス共作の『サンバ・エン・プレリュード』みたいなロマンチックなのを歌うと良い」と伝えた。「ボサノーヴァは沢山知ってるわ」と嬉しそうに彼女が答えたのが印象に残っている。
 さて、最近になって非常に驚いたことがある。それはBubbyが田舎で歌い始めた10代の頃、1963年にVSレコードというマイナー・レーベルで78回転SPを吹き込んでいたのだが、その曲目が何と『サンバ・エン・プレリュード』だったことを知ったのである。
 しかし残念なことに、プロデューサーの目の付け所が適当ではなく、ロジェリオ・ドゥプラットなんてモダン派マエストロの編曲で、「君なくて望みあらず」なんてタイトルで誰が訳したのか知らないが彼女は日本語で歌ってしまっていた。
 日本のボサノーヴァ女王こと小野リサが生まれたのがちょうどこの頃であるから、もしBubbyがバーデンの伴奏でボサノーヴァをポ語歌詞で歌って日本へ売り込んでいたら、きっと日本の初代ボサノーヴァ女王は彼女となっていただろう。
 Bubbyには、日本で人気が高かったナラ・レオンやアストラッド・ジルベルトのような素人的なシャルム(チャームポイント=魅力)ではなく、カリスマ性があったから大ヒットしたに違いない。
 あれから55年。オス・インクリーベイスはドラマーだけが存命で、Bubbyは米国カンザスでおばあちゃん生活を送っている。
 思えばブラジル・ポピュラー音楽界における日本歌謡曲の女王でテレビ人気番組「イマージェンス・ド・ジャポン」の司会をつとめたローザ三宅もBubbyと同年配で米国に暮らしていた。彼女も戦前に日本人移住者が多く入植したサンパウロ州ノロエステ線地方に育って、州都で活躍したという経歴を持っている。何とも不思議な感慨を抱かせる偶然の一致だ。

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