特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=13=泣かせの名手を泣かせた歌姫マリア・クレウザ

マリア・クレウザのレコード「Doce Veneno」(1978年)のカバー

 有名な演歌師・田端義夫、愛称バタやんが私に言った忘れられない言葉がある。それは「歌も楽器も泣かせなきゃ駄目だよ」
 つまり「音楽はテクニックだけでは人の心をつかめない」という流しもやった苦労人のバタやんの意見だから重みがある。
 ところで典型的なブラジル・ポピュラー音楽でサンバより古いショーロは、タイトルそのものがショラール(泣く)という動詞が語源だという説があり、俗語で「ピ―ニョ(松)を泣かせる」はビオラを弾く意味なのである。まさにバタやんの表現そのものではないか。
 日本でショーロが知られてきたのはサンバより遅く1970年代であるが、日本人でギターを弾いていた少年がショーロの魅力に取りつかれて、その主力楽器カバキーニョを一心不乱に勉強してプロ演奏家のパイオニアとなった。
 前置きが長くなったが、今回は人を泣かせる修業をしてきたその少年が、ブラジルの歌手マリア・クレウザに泣かされてしまった話なのである。
 井上みつる。1955年生まれの江戸っ子。成蹊大学を卒業した頃はミュージシャンとして活躍していた。ブラジル音楽評論家の大島守氏がみつるさんを私に紹介したのは、確かエリゼッチ・カルドーゾ日本公演の際だった。今でも憶えているのは大島調とも言うべき辛子が利いた紹介の言葉である。
 「井上みつる君は熱があるから将来有望だよ。まだ深みが足りないけどな」
 他国の民俗音楽を身につけるには、その土地の文化的感受性が血の中に入るまで年季を積まなくてはならない。みつるさんはその後、苦労と修行を重ねて1989年にブラジル音楽専門のタッタルーガというマイナー・レコード社を設立して、2003年に退社するまでに狭い分野ながらも20枚以上CDを制作し、ショーロ界重鎮のバンドリン奏者エバンドロと7弦ギターの大家ルイジ―ニョを5回も本邦招聘する業績を残した。

 1980年代のブラジル芸能人訪日ブームにはナラ・レオン、クララ・ヌネスをはじめ多くの著名人と共演している。また1983年から10回ほど来伯して多くの音楽家との共演や交流を深めているので、リオ、サンパウロのショーロ界で「みつる」の名を知らない人はいないだろう。
 ショーロのような地味で狭い分野の芸術を日本へ広めた彼の功績は大きい。数年前に訪日した或るブラジル人ジャーナリストが、地方の小都市で学生グループのショーロ演奏を聴いて感動したと語ったくらいになっているのだ。
 最近はみつる名の活動ニュースが聞かれなくなったのでパンデミアのせいかと思っていたところ、日本のショーロ女王である群馬県玉村町の片山叔美ふるさと大使から、彼がメニエール病の重症で半年以上寝たきりとの知らせとともに、私は彼からメールを受け取った。
 現在不治の難病でいつ倒れるか分からないので、お願いがあります、という便りだったので私は驚いて詳しく問い合わせると、「体の調子が良い時に自分の歌とギターを自宅録音したので、それにかぶせて一番好きな歌手マリア・クレウザにデュエットしてもらえれば遺作品として配りたい」との依頼だった。「遺作」とは「死後に残された作品」のこと。みつるさんは、自分が亡くなった後、これを配ろうと今から準備しているようだ。
 その曲は「サンバ・エン・プレリュード」で、ギター巨匠バーデン・パウエルとボヘミアン詩人ヴィニシウス・デ・モラエスの名コンビが1963年に酒漬けになって作った名曲である。ブラジルの楽聖ビラ・ロボスへのオマージュとしてバキアーナ第4番の対位法をヒントとして作られたものだ。
 勿論みつるさんはこの曲がマリア・クレウザの大好きなレパートリーであることを知っていたから選んだのである。
 マリア・クレウザは1970年代にヴィニシウス・デ・モラエスとトキーニョとの共演で欧州とアルゼンチン公演をくり返して有名になった美貌美声のトップ歌手である。日本へは1974年以来数回公演してファンが多い。

遺作品CDの表紙

 最近はもう80歳近くなりアルゼンチンへ引っ越したので、どうやってコンタクトしようかと私は困ったが、トキーニョのマネジャーが彼女と親しかったのを思い出して頼んだら早速仲介してくれた。彼女からはすぐに次のような返事か来た。「日本人のカバコ(カバキーニョ奏者)みつるの名は知っていますが遺作とはショックです。でも年老いた私を憶えていてくれてとても感動しました。勿論歌いたいです。好い作品にしたいので信頼できるスタジオとサウンド・エンジニアに頼んでレコーディングします。経費などはご心配なく。私に対する御厚情への返礼です。しかし、これが遺作となる必要が無くなることを心から祈っています」
 有名タレントが早速こんなに親切な対応をしてくれるなんて私は感激した。そして彼女が録音した音源が日本へ返送されて、プリントしたCDカバーに大和田るみなイラストレーターが可愛い画を描いて完成したのである。私は品物と一緒にみつるさんからの手紙を受け取った。
 「素晴らしい仕上げで僕の宝となりました。とにかく80歳とは思えない甘い声です。さすがにベテランの技で、まるで僕と一緒に同時録音しているみたいに息がぴったり合っているのには全く敬服感激しました。僕は病気で上を向いて歩けないから、涙がポロポロとこぼれ落ちました」なんて坂本九の歌詞をもじったしゃれが書いてあった。
 今まで人を泣かせてきた名手が、マリア・クレウザの歌声に泣いたのである。ショーロ奏者のことを通称「ショロン」と呼ぶが、この単語は「泣き虫」という意味なのである。
 もし大島氏が生きていたら、きっと「みつる君、ショーロを目指してから50年後にとうとう正真正銘のショロン(泣き虫)になったな」と言うに違いない。
 私も完成したCDを手にして胸が熱くなった。むしろ、このCDを作ることで、みつるさんは少し良くなったのかもしれない。すぐにマリア・クレウザへ郵送しようと思ったが、もし品物だけ受け取ったら彼女はミツルが昇天したと勘違いするだろうから考え直して、私は次のようなメッセージを書いた次第である。
 「あなたの美しい声は、病魔を追い払う最良の音楽療法薬となりました」

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