《特別寄稿》新渡戸稲造『武士道』から=日本文化の精神性を学ぶ=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子

新渡戸稲造(新渡戸博士追憶集、public domain)

 先回、3年ぶりの一時帰国で日本文化に深い感銘を受けたことを投稿した。それは単に郷愁に駆られて、日本文化が一番優れていると礼賛するものではない。しかし、全国的にいずれの場所を訪れても、そのたたずまいの清潔さ、人々の礼儀正しさ、親切さ、食べ物の美味さに当たりはずれや落胆することはないであろう。
 もちろん日本社会にも当然影がある。内閣府が日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンを対象にした「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」(2015年)を見ると、日本の超高齢化社会における諸問題は訪米に比べ、「頼れる人がいない」「友人がいない」という割合は著しく多いという。
 日本の恐るべき少子化、人口減少に対して、国は「地域包括ケアシステム」などを標榜しているが、現実には、その構想を実践する人が圧倒的に不足している。世界第3位の経済大国である先進国日本の高齢者が抱える問題は切ないほど深刻である。
 社会は世代間格差による意識、考え方の違いの溝は深い。今日の高齢者はこれまでの体験、慣習が通用しないことを悟り、家族間においてさえ、未体験の諸難問をうまく解決しないと悲惨な結果を招くことになる。
 しかし、冒頭に述べたように、国全体としての清潔、安全、安心、品質に対する信頼度は国際的にすこぶる良く、常に日本の優れた国民性が高く評価されている。それは、古くから伝統的に培ってきたものであり、この国の文化的形態として何としても伝承したいものである。
 このような国民性の根底にある日本精神を教えてくれるのが、新渡戸稲造の『武士道』である。内容に多くの批判があるものの、日本人の原点回帰の一書といわれる。この本は、新渡戸が在米中に出版し、フランス、ドイツ、イタリア語に翻訳された名著である。英語名はThe soul of Japan(「日本の魂」)という。

ポルトガル語版Bushido. Alma de Samurai(Tahyu、1 janeiro 2005)

 ブラジルでもすでに、ポルトガル語に翻訳され、出版されている。一つは「Bushido. Alma de Samurai」(editora Tahyu, 1 janeiro 2005)、もう一つは、「O Caminho do Samurai」(editora Pé da Letra、1 janeiro 2019)である。
 インターネットのアマゾンのサイトでは、購買者からいずれも高評価を得ているようだ。専門的な厳しい批判を寄せているコメントもあるが、それは、この本が人々の関心を集めていることに他ならない。日系移民の多いこのブラジルで、日本国の文化が翻訳されて子孫に残ることはたいへんありがたいことである。しかし、難解な部分もあるので、やはり、繰り返し語り伝えるという作業は必須である。
 日本文化の一つ、「武士道」が、言語、慣習を超えて広く読まれることを、著者新渡戸稲造は最も望んだことであったはずだからである。
 『武士道』というと厳めしいタイトルであるが、英語の題名のように日本人の魂をはぐくんだ固有の文化が解説された短編である。

著者・新渡戸稲造の人物像

 新渡戸稲造(にとべ いなぞう、1862―1933)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究者。国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の5千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長であり、他、多数の大学の初代校長を務めた。
 岩手県盛岡市の盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて盛岡藩校作人館に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。
 祖父は江戸で豪商として材木業で成功した。稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から、「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。
 東京在住の叔父の勧めで上京した。この時、名を稲造と改めた。上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。
 13歳で東京英語学校(後の旧制第一高等学校、東京大学教養学部)に入学した。

内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代

 15歳で札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学。一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士による「倫理学」の授業で、一期生はほぼ全員がキリスト教に入信していた。稲造はじめ二期生も続々と入信し、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館で洗礼を受けた。
 この頃から稲造は視力が悪化し、眼病を患い、それが悪化してうつ病になる。数日後、病気を知った母からの手紙を受け取り盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったが、トーマス・カーライルの『衣服哲学』という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯に幾度となく読み返した。

「太平洋の架け橋になりたい」

1932年、新渡戸稲造と妻メアリー(public domain)

 その後、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。さらにドイツ留学。1891年(明治24年)に帰国し、札幌農学校教授に赴任する。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。
 この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利で日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、ドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。
 以来、新渡戸の『武士道』は読み継がれているが、国内での刊行当初は皇室学者の津田左右吉などから、「古(いにしえ)からの史実を全く無視した、キリスト教徒の考えた自分勝手な思想である」「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」との指摘があった。(参考=ウィキペディア)

道徳教育の必要性

 新渡戸は、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、日本人の心のよりどころを世界に向けて解説した。内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心の『茶の本』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として知られている。
 新渡戸が「武士道」を書いた動機は、ドイツに留学中、ベルギーの碩学ド・ラヴレー教授が発した問いかけであった。

「日本では宗教について教えない? それでは宗教教育がないのに、どうやって道徳心を養うのか?」

 つまり、何に基づいて、物事の善悪を判断するのですか、と問われたのである。
 回答に困った新渡戸は、日本人の道徳規範を作っているものを明らかにせねばならない。自らが士族の出身であり、自分自身の経験に照らしてあるひとつの結論に辿りついた。それは、日本人の倫理観は武士の世界において以心伝心で受け継がれてきた掟であり、家庭教育の中で身についたものである。
 それを彼は、当時の欧米社会の誤った先入観を改めさせ、日本人の物の考え方や行動を支配する倫理道徳思想を欧米人向けに自己主張した日本文化論として〚武士道』を顕した。
 単に日本文化を紹介する目的で書かれたのではなく、当時の武士階級出身者ならば誰でもそうであったように、祖国に対する人一倍の強い誇りと忠誠心として、道徳に密接にかかわっている武士道を取り上げたという。
 https://ja.wikisource.orgに原文が紹介されているが、古文で書かれているため現代人には少し難解であるので、語弊があるかもしれないが、本文からその内容のほんの一部を次のように要約してみた。

武士道とは、我が国の象徴である桜と同じく、日本の国土に咲く固有の花である

英語版The Soul of Japan (1900年、Philadelphia: Leeds & Biddle、Houghton Library, Harvard University)

 そもそも武士とは戦闘を職業とする集団で、この集団の中で養われた共通の概念が武士道である。
 この共通の概念には日常の生活内で非常に高い道徳心が求められ、義務や倫理などを行動として実践しなければならない。
 第一章では武士道の源泉として仏教、神道、儒教が挙げられている。
 まず仏教は、武士道に安心立命の士気を与え、運命に逆らわないという平静な態度や、生へ執着しない、危機災厄に臨んでも沈着不動の心がまえを与える。神道は、主君や祖先、親を敬い、服従することを武士道にもたらした。
 そして、武士道の道徳的な部分に最も大きく影響したのが儒教である。親子の愛情(父子の親)や、年長者への敬い(長幼の序)といった考えは、もともと日本民族が持っていた性質とも合致したのである。そして、武士道の中心を成す7つの徳目を「武士の掟」として挙げている。それは義、勇、礼、仁、誠、名誉、忠義である。
【義】卑怯や不正を憎しみ正しいことを行う。すなわち、「嘘をつかない」「相手を騙さない」「約束はきちんと守る」など。
【勇】勇気を持って行動すること。「何が起きても動じない心」という勇猛精進を勧める。『論語』に「義を見てせざるは勇なきなり(人として正しいことであると知っていながら行なわないのは、勇気がないからだ)」のとおり、義と勇は一体であり、それがあって正しい行動がとれるのである。
【礼】行動の美学、型としての「礼」。「礼」の根本は「仁」と「義」とされる。「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」つまり、本心良心に宿る根本の徳の「仁」と、そこから生まれ出た人としての正しい行いの「義」を型にしたのが「礼」である。
 「礼」の本質は、「義」や「仁」など他の徳目を目に見えるかたちで表現したものであり、日常の挨拶ですら相手を思いやる心がなければそれは単なる所作であり、「礼」とは言えずかえって「失礼」となる。
【仁】とは、人としての思いやり、他者への憐れみの心のこと。弱き者や負けた者を見捨てない心、高潔で厳格な義と勇を男性的な徳とするならば、仁は女性的なやさしさ、母のような徳をいう。
【誠】とは字のごとく、自分の言ったことを為す「有言実行」。口先だけでない、発する言葉に真実を持つ。嘘をつかず、不誠実を嫌う。
【名誉】とは、他人から称えられるものではなく、恥を知る、美しく潔く生きて死ぬという最も高潔な生き方を貫くことを名誉という。
【忠義】とは主君や国に対する忠誠心、武士道の目的を言うが、現代に置き換えると私利私欲を捨て、世のため、社会のために誠意を貫いた行動をするということになる。

7つの徳目は日本文化の原点

 以上、『武士道』から7つの徳目を見てきたが、これらの徳目は一つ一つが独立してあるものではなく、すべての項目が繋がって意味を成しているということを学んだ。
 確かに、日本の現代社会は、便利で豊かな物質文明の流れに組み込まれ、社会のシステムも大きく変化し、「武士」「道」といった言葉の意義が語られる機会は間違いなく薄れた。アニメの世界だけで現実味の無い武士道人気が好まれているように見える。
 しかし、外国人観光客にせよ、外国に居住する日本人であれ、日本人の行動規範の根底には歴然としてこれらの徳目が横たわっていることを痛切に感じるであろう。なによりも、高齢者はこのような道徳観をまだ忘れていない。それならば、余生を、品性を磨き、独立自尊の精神を貫いて、後世に、この伝統的徳目を継がせるべく、その灯を掲げ続けたいと思うものである。

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