《特別寄稿》年老いてこそ歌う『惜別の歌』=サンパウロ市ヴィラカロン在住=毛利律子

藤江英輔の講演を報じる中央大学125周年記念号(https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/10/2010_04-06.pdf?1675360726883)
藤江英輔の講演を報じる中央大学125周年記念号(https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/10/2010_04-06.pdf?1675360726883)

 『惜別の歌』といえば昭和36年(1961年)、小林旭が歌って大ヒットした62年前の歌である。この年には『上を向いて歩こう』が世界的な大ヒット曲となり、心に残る名曲も数知れない。懐かしい愛唱歌は一生心の中にあって忘れず、ふと口ずさんだり、涙ながらにひとりで、あるいは仲間と共に歌うのである。ここでは4番までを紹介したい。

1.遠き別れに 耐えかねて
  この高楼(たかどの)に 登るかな
  悲しむなかれ 我が友よ
  旅の衣を ととのえよ
2.別れと言えば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
  夢はずかしき 涙かな
3.君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ
4.君の行くべき 山川は
  落つる涙に 見えわかず
  そでのしぐれの 冬の日に
  君に贈らん 花もがな

 昨年の年末恒例の『NHK紅白歌合戦』では、この年に若大将シリーズが始まった加山雄三が歌手生活最後の出演をして話題を呼んだが、演歌歌手の出演はごく少なくなった。カタカナ名前の若いグループ歌手のパフォーマンスを見て、「歌の新時代」を感じた視聴者が多かったと報道された。
 ところが、サンパウロでは去る1月15日に「第24回グラン紅白歌合戦」が3年ぶりに開催され、10代から80代の日系人ら26組52人が出場したという記事と映像を見た。プロ並みの衣装で着飾った方々が、懐かしの演歌・懐メロを次々に熱唱する姿に感動した。「懐メロ」の歌詞はいつ聞いても心に響く。それはやはり、今ではほとんど使われなくなった美しい日本語で綴られているからであろうか。このような愛唱歌を聞くたびごとに廃れさせてはならないと切に思うのである。

『惜別の歌』は、中央大学の学生歌

 私にとって、数ある名曲の中でも忘れられない歌のひとつが『惜別の歌』である。特に70代になってからというもの、周りから、大切な親、多くの友人知人が一人一人去り、その寂しさをこの歌に寄せて歌うことが多くなった。
 この歌の歌詞は、島崎藤村の詩「高楼」である。遠くに嫁ぎ行く(売りに出されるという説もある)姉と、見送る妹との8連の対話を詩っている。作曲は、昭和20年、中央大学予科生の藤江英輔(ふじええいすけ)氏である。藤江はその中から1、2、5、7連を抜き、1番の「わがあねよ」を「わがともよ」とした。
 それは藤江氏が在学中の終戦直前、東京板橋の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)第3工場に学徒勤労動員だった時、作曲のきっかけとなった友を戦地に送り出す時に作った。心の中で再会を祈ったが友は戦地から帰らず、出征を直前にしていた藤江氏は終戦で生き残った。
 その言葉にならない思いを抱いて「惜別の歌」を歌うことになったのであった。戦争末期「生きて帰ってこい」と言えない世情の中、秘かに友の無事を願う哀惜のメロディーは、工場で口づてに広まり、送別の度に歌われた。終戦後すぐに全国の「歌声喫茶」から始まり、レコード盤の小林旭の歌声が全国に流れるようになった。
 この誕生については、中央大学のウェブサイト(https://www.chuo-u.ac.jp)にアクセスすると詳しい情報を読むことができる。中でも、元商学部猪間駿一教授の定年退官記念講義(昭和41年12月1日)で教授が語った言葉は、今だからこそ、重く心に残るのである。
 「(私が訪れた)ハイデルベルグ大学の学生食堂の戸口には「喜びのつどいにありても、うたげの装いに輝く広間にありても、汝らのために倒れたる英雄を思え。幸福の中にありて、辛酸のかつての年を忘るな。汝らのために死せる者はなお生きてありと思え」と書かれてあった。中央大学にはそういう像もなく碑銘もない。しかしこの「惜別の歌」がある。これを歌われて戦いに赴いて、倒れた英雄はわが大学にも少なくはなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ」要旨)と。
 作曲者の藤江英輔氏は2015年(平成27年)10月14日、享年90歳で逝去した。

亡き夫のお墓参りをする女性(イメージ写真)
亡き夫のお墓参りをする女性(イメージ写真)

高齢者夫婦の一番の悲しみは伴侶を失うこと

 さて「別れ」にもいろいろあるが、夫婦の別れについて考えてみた。理想とする家庭を築くには、夫婦は、志を一つにして共に手を取り戦う戦友であり同志であると言われる。伴侶の死とは、人生の、最も長い時間苦楽を共に過ごした大切な人との別れなのである。
 今日の高齢者に「人生で一番悲しいことは何ですか」という質問をしたところ、「長年連れ添ってきた伴侶を亡くすこと」という答えが圧倒的に多かったという統計がある。
 たしかに自分の身の回りにも、70代を超えて伴侶を亡くしたという方がたくさんいる。ご主人を亡くして数年間はあまりの寂しさ、悲しさに打ちひしがれてしまった、と皆さん同じことを言われる。
 私が最も尊敬していた高齢の婦人がいた。その方のご主人は長年小学校の校長を務めていた。退職後、月の定例会や集会には、ご主人の運転するオートバイの後部座席に跨り、その背中に張り付くようにして、お二人揃って幸せいっぱいの笑顔で参加していた。ところがご主人が病気になり、手術後すぐに亡くなられた。夫人の嘆きは何年続いただろうか、その方は次のような言葉を何度繰り返して言ったことか。
 「伴侶が亡くなるということはこれほど耐えがたいことなのですね。何も妻らしいことをしてあげられなかったと、寝ても覚めても後悔に苛まされ、悲しみで潰れそうになる。今世が幸せだったから、生まれ変わっても同じ夫に巡り合いたいと願うばかりです…」
 「親子は一世、夫婦は二世、師弟子は三世」という言葉がある。
 この教えは、親と子の関係は現世だけ、夫婦の関係は前世と現世、もしくは来世での二世にわたり、主従関係は前世、現世、来世にわたる強いものだということを表している言葉であるが、そのときの夫人の思いはまさにこの言葉を思い出させるのものだった。
 そのたびに、私たちの小さなグループは共に涙し、慰めにと愛唱歌集のCDを贈った。するとその方は、一人になるとCDを繰り返し聞き、毎日、それに合わせて大声で歌って気持ちを紛らわせたと語っていた。そのころの私には、その嘆きに共感するには未熟であり、今頃になってその悲しみが痛いほど偲ばれるのである。そのご婦人は友に囲まれて穏やかな余生を過ごし、100歳で亡くなった。
 男性の場合は、文芸評論家の江藤淳氏のように、最愛の妻であり、執筆活動を支えてきた慶子夫人を失い、自らが軽い脳梗塞を患い、読者に向けた「遺書」とも読める『妻と私』を書いて自らの命を絶った。

妻に先立たれた男性を一人にさせてはならない

 2018年8月、旧ニッケイ新聞紙上に、「配偶者亡き後の生き方「没イチ」をどう生きるか」と題して記事を投稿した。その中心テーマは「妻に先立たれた男性を一人にさせてはならない」ということであった。離婚を経験した人のことを「バツイチ」と言うが、伴侶に先立たれた高齢者のことを「没イチ(ぼついち)」と呼ぶそうだ。妻や夫に先立たれた配偶者は、かつては子ども世帯と暮らしている人が多かったが、今では圧倒的多数が1人暮らし、あるいはケアハウスの住人となるケースが増えている。女性は一人になっても他人付き合いが上手く、デイサービスなどでもすぐに馴染めるが、男性が遺された場合の実態は悲しいまでに孤独なのである。
 特にコロナ禍の外出禁止による長い蟄居状態は健康な高齢者でさえ心身を著しく弱らせた。外出して人と会い、談笑し、遊ぶということを全て禁じることになったからである。すると人間どうなるか。中でも、伴侶を亡くした場合に男性は急速に認知症になるケースが非常に多くみられるという。
 しかもとても怒りっぽくなるらしい。目が覚めると、何かにつけて怒鳴る。介護をする娘を亡き妻と間違えて「どこに行ってたんだ、バカヤロー」とくる。ちょっと目を離すと、妻を探しに家の周りをうろつく。うっぷんを晴らす相手が無く、一日、じっと身を固くして物を言わず、窓の外を見つめている。
 当人を一人にしてはいけないと周りがいろいろ工夫する。気疲れしない程度の外での交際を保ち、ひとりで打ち込める趣味を持つといったことを紹介するが、本人がそれを始めたとしても長く続かない。寂しさを埋めるために、即、グループ活動に参加させると、自分が追い出されていると卑屈な思いに落ちこむ。
 介護施設に入居させたとしても、自発的に部屋から出て他人に接することもなく、些細ないざこざで職員を怒鳴りつけ、手を焼かし、嫌われ者になるという悪循環である。
 解決策として提唱されているのは、夫婦が健康なうちから、長く慣れ親しんできた自分の宗教や団体活動の場や、顔なじみの趣味のグループとは、つかず離れず、人間関係の煩わしさを回避しながら続ける。山登り、大工仕事、環境整備のアルバイトといった外回りや、ひとりで「自分の時間」を大切して打ち込める趣味、あるいはパソコンを使ってちょっとした小遣い稼ぎをして楽しむ方法など、そういう人々を対象にした本や趣味の情報は豊富に紹介され、年々増えている。
 つまり、孤独になっても上手な老いを過ごそうという情報は日々更新され、加速し、何を選んでどう実行したらよいのか決められないほど、溢れているのである。これもまた大きな問題の種をはらんでいるのではないだろうか。

堪えがたい悲しみにどう対処するか

 高齢者だけでなく、「重大な喪失にともなうつらさを、どう解消すればいいのか」という問いがある。日本では近年、頻発する災害、凶悪な事件、思わぬ事故によってかけがえのない人を突然失うといった事態が後を絶たない。自然災害の少ないブラジルと言えど、人間社会で起きることはそう大差ないのではないだろうか。近世、起こるはずがないと思っていた戦争が、ロシアとウクライナの間に起きた。これからは対岸の火事とは思えないことが身の上に起きることを覚悟しないといけない時代に入っているのかもしれない。
 このような堪えがたい悲しみをどう対処するかということに対して、悲嘆学を専門とする関西学院大学の坂口幸弘教授は「悲嘆の大きさや期間には個人差がある。悲しみは消えないかもしれないが、自分なりの向き合い方を探すしかない。落ち込みと前向きな気持ちの間を揺れ動くうちに、つらいだけの時間は少なくなっていく」と述べている。
 つまり、失ったものは戻らず、悲しみは消えない。「喪失」のための即効薬はない。それを抱きながら生きていくほかにないと観念するしかない。懐かしの愛唱歌を口ずさむことの意義も、そのあたりにあるかもしれない。

仲の良い高齢夫婦(イメージ写真)
仲の良い高齢夫婦(イメージ写真)

 「別れといえば昔より、 この人の世の常なるを」
 『惜別の歌』は、メロディーの美しさはもとより、詩人島崎藤村は古今から教え伝わってきた「別れ」を高尚な言葉にして残した。ぜひ最初に載せた歌詞を、今一度見てみてほしい。この詩全体に溢れる日本語の優美さ、奥ゆかしさをもって、仏教の「死は一定(きまりごと)なり」、また「一期一会」の真髄を歌うのである。
 ちなみに藤江氏は、4番の最後が「君に送らん花もがな」について次のように述べている。
 『当時は文字通り、一輪の花も無かった。友よ許せ…。言葉にならぬその思いが4番には込められているのです。是非、4番まで歌って欲しい』と。

 

 

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