《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史 坂尾英矩=(21)=音楽界で達人と称賛された日本人=コントラバス奏者の塩田穣(みのる)

TVガゼッタのど自慢番組バンド(1981年)、ピアノ筆者、ベース塩田(イマージェンス・ド・ジャポン広報写真)

ブラジルポピュラー音楽界の知られざる逸材

 2010年11月21日、暗い日曜日にサンパウロ市日本人街中心にあるバンデイランテス病院82号室で日本人音楽家がひっそりと亡くなりました。1928年11月9日日本生まれ、塩田穣(みのる)82歳、肺気腫でした。
 ひっそりというのは、ナンシー夫人のほか、音楽関係の日系2世数人が駆けつけただけで、当地邦字紙にも報道されなかったからです。しかし、この人はサンパウロのミュージシャンたちからコブラ(達人)と呼ばれ、実力と温厚な人柄が皆に親しまれた一流ウッドベース奏者だったのです。
 もう一世紀以上経つブラジルの日系社会は色々な分野で活躍する著名人が続出しています。ポピュラー音楽の器楽奏者という狭い界隈は目立たないので、日系人の間で知られていなかったのです。また塩田氏は無口な性格だったので長年の知り合いでも彼の出身地、大学名、現住所などを知っている人は少なかったのです。

「シオダはブラジル一のスイングベースだ」

 そんな隠者のような塩田氏は、1950年代にブラジルのトップクラス・ダンスバンド「エンリコ・シモネッチ・オーケストラ」のイタリア人マエストロ・シモネッチのお気に入りでした。またルイ・アームストロングと昔共演していたサックスの米国人ブッカー・ピットマンは「シオダはブラジル一のスイングベースだ」とほめたほどのプレーヤーでした。
 このコメントについて一言説明する必要があります。植民地時代のブラジルは白人の上流社交界だけがヨーロッパ音楽を弦楽アンサンブルで楽しんでいました。一般人が接したポピュラーミュージック、いわゆる大衆音楽は、公園などで演奏する町内ブラスバンド的な「バンダ・デ・コレット」や軍楽隊などの管楽器編成でした。
 ですからサンバ、ショーロなどでギター、マンドリン、カバキーニョなどが使用されるようになっても、大きくて重たいコントラバスは使用されなかったのです。ところが20世紀に入ってからラジオ、レコード、ダンスパーティなどでコントラバスが必要となり、楽器を輸入しても演奏者が不足したのでギター弾きがベースに持ち替えるケースが多かったのです。

米軍キャンプ時代の塩田氏(筆者提供)

 この現象は1950年代まで続きましたから、終戦後米軍キャンプ回りのジャズバンドで腕を磨いた塩田氏のビートは非常に貴重だったのです。つまり、ギターあがりのブラジル人ベーシストは耳が良くテクニックがあっても、深いスイング感でバンド全体を持ち上げる縁の下の力持ち的ビートを出す塩田氏とはリズム感が違っていました。
 アルゼンチン人ロブレッドの有名なピアノトリオに迎えられた時には、日本人の顔が珍しかったので「ジャポネス・ダ・コンタ・デ・レカード?(日本人が役目を果たせるのか)」と多くの人に言われたそうです。そのたびにロブレッドは「ブラジル人のエキスパートは皆『おかず』が多すぎるから日本人の方が良い」と答えたそうです。
 この言葉の意味は、ブラジル人の一流奏者はテクも耳も良いが、どうしてもラテン系の人に有りがちな自己中心的エゴに走り、一晩中ソリストの陰となっているのに我慢できず、時々自分のうまいフレーズなど細かい装飾音を入れてしまうのがロブレッドの気に入らなかったのです。
 それと比べて塩田氏は日本人特有のチームワーク精神がありますから、ソリストをもくもくと支えるベーシングがロブレッドに好かれたのでしょう。これは一般人にはなかなか感じ取れないことですが、小編成バンドの演奏上非常に重要な要素なのです。

ダンスパーティで「ハリウッドみたいだね」

 1959年6月20日、ミナス州首都ベロ・オリゾンテ空港にスーツケース1個を手にして降りた塩田氏を私が迎えました。日本で有名なハワイアン・バンド「ココナツ・アイランダーズ」の巡業に参加するためリーダーの寺部頼幸氏が呼んだのです。
 ウクレレとコーラスを担当していた私はポルトガル語会話が多少できたので、元海軍士官だった寺部さんから「副官」と名付けられて秘書役も仰せつかっていたのです。
 最初の仕事は首都から離れた田舎町のイタビリット・サッカークラブのダンスパーティでした。会場に入った瞬間の塩田氏の言葉「ハリウッドみたいだね」が忘れられません。会員家族のお嬢さんたちはロングドレスで着飾っていたのです。
 しかも美女が多いミナス州ですから小さな田舎町でも「ハリウッドみたい」と言う表現はピッタリでした。控室でボーイが「何か飲まれますか」と言うので塩田氏は大好物のジンを注文しました。休憩時間にクラブの会長と話をしていたら娘さんたちが集まって来て囲まれました。
 会長が塩田氏に「この中でお嫁さんにするとしたらどの子?」なんてからかったら、ジンでメートルが上がっていた彼は、すぐにその場で唯一人の中年だったエレガントな婦人を指さしました。とたんに娘たちからどっと歓声が上がったのです。それもその筈、会長は頭をかかえて「困ったな彼女は私のワイフです」と言ったので娘たちは大笑いでした。
 塩田氏のジン飲酒失敗談はもう一つあります。ブラジル人のジャズコンボでブエノスアイレス公演の際に終わってからホロ酔いで港を散歩していてピアから海に落ちたのです。仲間がすぐに助けて命拾いしました。
 ハワイアン巡業後、彼はサンパウロに落ち着いてブッカー・ピットマンのバンド、ロブレッド・トリオ、エンリコ・シモネッチ・オーケストラ、幻のジャズサックスと言われたカゼのコンボ、ブラジリアン・オクトパスなど一流バンドを転々とした後、小野リサちゃんの父親敏郎氏が経営するクラブ一番のステージ・マネジャーを務めていました。

ブラジル音楽家協会の丸山昌彦理事90歳誕生日、左から丸山、坂尾、塩田(筆者提供)

伴奏者としてトップクラスの日本人ベーシスト

 1980年代、エンターテインメントビジネスの大変化によって、まともな音楽家たちの仕事場が縮小したので、塩田氏は伯アーティストの本邦招聘事業を手伝っていました。ですが、1990年代から音楽をやめて、日本の紀文食品会社へ出稼ぎに行って、多数のブラジル人従業員担当係長となって90年代末まで勤務していました。
 そしてサンパウロへ戻って日系人相手の音楽教室を開いたのです。早速ブラジルのど自慢協会の島田正市会長からオーケストラの編曲と指揮を頼まれて、晩年の塩田氏は後輩の指導に専念していました。
 ブラジル人の日本人観は総体的にとても友好的で、ブラジルは日本人にとって世界で一番居心地が良い国であることは誰もが感じるでしょう。そして色々な面で緊密な交流がありますが、ポピュラーミュージック界で一人の日本人ベーシストが伴奏者としてトップクラスだったのは知られていません。
 塩田氏と共演したブラジル人の中で今も健在なのは州立ジャズシンフォニー・オーケストラのネルソン・アイレス元指揮者、ロベルト・カルロスRC7のリーダーだったマギーニョと往年のヒット歌手エリアナ・ピットマンなどです。
 日本側では親交があったボサノーヴァの女王小野リサ、赤坂ボッサジャズ・クラブ「ケイ」のママ、おケイさん、そして作家の醍醐麻沙夫氏と大同コーポレーション久晃一元社長ぐらいでしょう。不思議な縁ですがブラジル音楽評論家の草分けとして有名な故大島守氏が進駐軍キャンプ回りをやっていた頃、塩田氏と同じバンドのメンバーだったことがあるのです。
 私はこの原稿を書き終えて、つくづく弔い合戦を全うしたような気がしてなりません。
 塩ちゃん、お疲れ様でした。

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