県連ふるさと巡り南大河州編=誕生と終幕、南伯に新胎動=(7)=かつての勢い失うサンタマリア文協

秋田県人会からの贈り物を受け取る杉本会長(左から2人目)

 一行はイジュイ市から175km離れたサンタマリア市に到着。ホテルで昼食を済ませ、夜にレストランで行われる現地日本人会との交流会まで体を休ませながら参加者同士で団らんを楽しんだ。
 交流会には、サンタマリア日伯文化協会(サンタマリア文協)から5人が参加した。会長の杉本和子さん(89歳、熊本県)は訪問に謝意を示しながらも、「本当は婦人会でおもてなししたかったけど、みんな体が動かないから準備できなかった」と残念そうに語った。
 同文協は創設時から「日本人会」として親しまれ、今も同じ呼び名が用いられている。今では往時の活気は失われているが、80年代までは運動会などを行っており、州都ポルトアレグレからの参加もあったほど活発だった。
 同地コロニアの歴史は1957年、木村實取(みとり)氏の指導の下、同氏の故郷である熊本県からあふりか丸に乗ってやってきた家族らによって始まった。当時は南大河州への初の集団移民として期待が寄せられていた。雇用先はウルグアイアーナ市近辺のサンペドロ耕地。同地に木村氏率いる米作移民33家族が農業労働者として入った。
 注目が集まる中、耕主の一方的な契約不履行により南伯移民は大きな不満を抱えた。次第に不満は爆発し、3家族、5家族と脱耕が相次ぎ、しまいには残る25家族も集団退耕を決意した。
 移民家族らは国際協力機構(JICA)の前身である日本海外協会連合会サンパウロ支部長に転住を直訴。新聞やラジオを通じて転住先探しに奔走した結果、最初に援助の手を差し延べたのがサンタマリア市長デオクレシアーノ・ドルネレス大尉だった。耕主は農場労働者への賃金支払いを3億レイス(当時通貨)も滞らせていた。
 デオクレシアーノ市長の協力のもと、移住家族らのサンタマリア市への転住が決まり、1958年3月21日、4台の車両に分乗してサンタマリア市に移った。同市やサンパウロ市のサンパウロ新聞社からの援助金が送られて移動費に充てられ、現地での雇用契約が結ばれた。
 農業雇用期間が過ぎると、移民らは様々な個人事業を始めた。雑貨、八百屋、農業、花屋や卸問屋など多種多様な店が開設された。
 日本移民が少なかったことから、日本人会はブラジル人市民との社会交流を盛んに行った。日本移民が主催した運動会などの伝統行事にも非日系人の参加が多くみられ、親日ブラジル人が増えた。その結果、サンタマリア市は1992年、日本移民の歴史を称え、12月23日を「日本人の日」と定め、市内の主要道であるフェルナンド・フェラーリ大通り沿いに日本移民への敬意を示した「日本公園(Praça Japão)」を造設した。

 日本移民は現地社会に溶け込み、子弟らは大学へ進学するようになった。多くの一世が当地永住を決める傍ら、ブラジル経済の不安定化により移民子弟らは90年代のデカセギ現象の波に乗り、日本へと渡った。日本で安定した家庭を築き10年以上戻っていない子弟も多い。現地に残った子弟も大学卒業後、州都や他州へ就職を決め同市を離れた。
 そうしてサンタマリア文協も各地の日系団体でみられる高齢化問題、後継者不在問題により活動鈍化を余儀なくした。
 杉本会長の挨拶後、団長の谷口ジョゼさんが感謝の挨拶を述べ、懇談へと移った。一行が料理を楽しむ中、杉本会長と同文協で書記を務める山本豊子さん(82歳、熊本県)が丁寧に各テーブルを回りながら一行と交流をかさねた。久々に会う多数の日系人との交流の間、彼女らからこぼれる微笑みには楽しさと懐かしさの気持ちが垣間見えた。(仲村渠アンドレ記者)

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