県連ふるさと巡り南大河州編=誕生と終幕、南伯に新胎動=(2)=古から南の地に住まう者

 故郷巡り初日の3月16日13時、参加者らはグアルーリョス国際空港に集合した。コロナ禍中は旅行はおろか、自由に自宅を出ることすらできなかった人も多く、「空港に来るのは何年ぶりだろう」と大きな笑みを浮かべながら楽しそうに話していた。
 参加者らは今回、3つのグループに分けられた。グループ2、3は前日の15日に現地に到着。記者が同行取材したグループ1の14人は、16日に南大河州サントアンジェロ市で他グループと合流した。そのため、本連載はグループ1の旅程を基本にして綴る。

 現地空港到着後、他グループと共に、サンミゲル・ダス・ミッソエス市へ移動。サンミゲル・アルカンジョ教会遺跡を舞台に披露されるサウンド&イルミネーションショー「Show Espetaculo de Som & Luz」を鑑賞した。
 ショーは、教会と周囲の自然をライトアップしながら、役者による音声演技のみで物語を伝えるという前衛的な内容だった。
 主要登場人物のイエズス会宣教師兼教会創設者アントニオ・セップ神父、教会建設者のジョヴァンニ・プリモリ、彫刻家ジュゼッペ・ブラサネッリ、ポルトガル軍陸軍元帥ゴメス・フレイレ、先住民グアラニー族指導者セペ・チラジューらの音声演技が、没入感を高める音楽、色鮮やかな照明とともに披露された。

 同地では、17世紀に先住民族を巡るイエズス会宣教師とバンデイランテス(奥地探検隊の名称)、ポルトガル、スペイン両帝国の対立が起きた。
 バンデイランテスは金鉱石などの採掘を行っていたが、先住民を奴隷化した方が儲けられるとわかると、未開の奥地の開拓を進め、発見した先住民の集落を破壊し、先住民を奴隷とした。
 先住民をキリスト教に改宗させることが使命の宣教師らは、バンデイランテスによる先住民奴隷化を良しとせず、先住民を連れて、より奥地へと避難した。バンデイランテスによる迫害から逃れた先住民らは集落を築き、キリスト教に改宗。宣教師からラテン語やスペイン語、ドイツ語、算術、音楽などの教育も受けた。
 奥地開拓を進めるバンデイランテスは、宣教師と先住民の集落を発見すると、宣教師に先住民を奴隷として引き渡すことを要求し、それを拒んだ宣教師らとは各地で抗争が起きていた。
 1494年にポルトガル帝国とスペイン帝国の間で交わされたトルデシリャス条約で、南米地域における両国の支配領域が定められた。だが、両帝国は条約を無視して互いに占領地域の拡大を続けたため、1750年に改めてマドリード条約が結ばれた。

15~17世紀ころの南米の支配国領域を示した地図。トルデシャリス条約締結時のポルトガル領は主に海岸部だったが、マドリード条約締結時には奥地開拓が進み、支配領域が広がっていることがわかる。丸がサンミゲル・ダス・ミッソエス市

 マドリード条約では、ポルトガル帝国がコロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ国コロニア・デル・サクラメント市)をスペイン帝国に引き渡す代わりに、宣教師と先住民により築かれた南大河州などの7集落を管理下に置くことになった。
 ポルトガル帝国は、自身で領地経営を行うため、集落から先住民らの追放を始めた。追い立てられた先住民らは、スペイン領へと移動することを余儀なくされたが、スペイン帝国では先住民の奴隷化が行われていた。奴隷化への反対と住み慣れた土地から離れることへの想いから、ポルトガル軍との間で紛争が勃発。グアラニー戦争(1753年)となった。
 当初ポルトガル軍は苦戦したが、スペインからの援軍を受け、戦局を有利に進めた。
 停戦会談の場面が演じられ、ポルトガル軍が先住民指導者セペ・チラジューに、敗北を認め、靴に口づけをすることで集落への帰還を許すとの条件をつきつけ、指導者セペが「Esta terra tem dono(この地はすでに住まう者がいる)」と叫び、抗戦を決断する場面がドラマチックに表現された。
 グアラニー戦争は56年に終戦を迎えた。先住民死者数は1500人。対するスペイン、ポルトガル軍はわずか4人だった。
 翌17日、教会遺跡を実際に歩きながら案内ガイドによる解説が行われた。ふるさと巡り参加者一行はイエズス会宣教師や先住民族らによって作られた木造彫刻を見ながら先住民たちの歴史を肌で感じた。遺跡ではグアラニー族の子孫による手芸品が販売されていた。
 一世参加者らは「昨日のショーもだけど、ポ語だからさっぱりわからなかったね。日本語で聞きたかった」と笑いながら、遺跡を後にした。(続く、仲村渠アンドレ記者)

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