県連ふるさと巡り南大河州編=誕生と終幕、南伯に新胎動=(8)=家族に捧げる女性移民の生涯

サンタマリア文協の山本豊子さん

 一行を迎えたサンタマリア文協の山本豊子さんは皆の来場を喜ぶ一方、「もっと盛大な歓迎をしたかった」と残念そうに話した。豊子さんは約40年前から積極的に会に関わるようになり、書記を務めたほか婦人会にも協力してきた。それ以前は2人の息子を養うために家業に専念していた。
 豊子さんは1957年、父母と妹、弟の5人であふりか丸で渡伯し、サンペドロ耕地に入った。南大河州への移住を先導した木村実取(みとり)さんと同じ便だったという。
 当時15歳だった豊子さんは、日本を出港して南大河州に到着するまでの56日間、「ブラジルではどんな学校にいくのか」と心配していた。
 だが実際に待ち受けていたのは労働生活だった。駐アルゼンチン大使などを務めた耕主バチスタ・ルザルドさんの下で農作業に明け暮れた。家は農場内の質素な長屋で、1棟に4家族が入り、8棟並んでいた。
 各家は土間一間のみでトイレも浴室もなかった。玄関にドアは無く、窓も枠のみ。冷える夜はドア枠と窓枠に毛布を張って寒気を防ぎ、土間にゴザを敷いて凌いだ。
 豊子さんはオリーブの収穫や稲刈りなどを担当した。この時初めて鎌や鍬を手にした。予想していなかった苦労が重なる日々に、豊子さんは毎晩のように親の前で涙を流していたという。
 そんな生活が半年ほど経つと、耕主の賃金不払い問題が起きた。移住者の中には、日本から持参したお金も使い果たした人も出て、退耕者が相次いだ。
 豊子さん家族もサンタマリア市の耕地に転住した。転住先では、ポルトガル移民で当時レストラン経営をしていた耕主マノエル・マルチンスさんの農場で働いた。住まいには電気も水道もあり、食べきれないほどの食料品が届けられ、サンペドロ耕地とはかけ離れた生活だった。
 その頃、妹と弟は学校に通い始めた。しかし、豊子さんは両親の手伝いに徹した。生活に苦はなかったが、土地が狭かったため他の耕地へ移った。移転先の耕主はアマウリ・ダーラ・ポルタさん。そこでも不自由のない生活を送ることができたと振り返る。
 朝は馬車に乗って朝市に野菜を売りに行く。その後は時間がある限り、野菜の収穫を行った。仕事以外の時間はなかったので遊んだ記憶はないという。20歳で故山本重喜さんと結婚して夫と商売を始め、結婚直前に来伯した姑と3人で暮した。
 豊子さんは二人の息子を授かり、子供たちが良い教育を受けられるよう夫と力を尽くした。当時一番良いとされていた学校に息子を通わせ、商売も少しずつ拡大していった。
 豊子さんは、両親を始め、娘のように扱ってくれた耕主や姑、生涯にわたって愛を育んだ夫など多くの人への感謝が絶えない。「私も彼らのようになりたい」と切に思っているという。
 豊子さんは10代には妹弟のために幼い頃からの夢であった学校を諦め、20代からは息子たちのために身を粉にして働いた。取材中に彼女がみせた気遣いや寛容さからは、人への献身を厭わない姿勢がにじみ出ていた。
 移民として異国に旅立ち、苦境を乗り越えてきた豊子さんらの経験を聞き、「この歴史を後世にきちんと書き残さなければ」と襟を正す気分になった。(続く、仲村渠アンドレ記者)

最新記事