連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第139話

・十月二日(水) 現役の宮崎県人会会長の谷広海さん(七十三歳)が交通事故で亡くなった。パウリスタのブリガデイロ大通りとアラメーダサントスとの交差点でバスにはねられた。ブラジル盛和塾と竜馬会の支部長で、又、日語普及会の前理事長でもあった谷さんは、多くの人から惜しまれた。ビラ・アルピーナで火葬に付され、私も葬儀に参列した。私の後任の県人会長で、来年(二〇一四年)八月に県人会創立六十五周年と県人移住一〇〇周年を祝うべく、日本の宮崎で招待状を配って帰伯して二十日目の
 災難であった。私達県人会理事会は急きょレウニオンを開き、高橋久子第一副会長を会長にして、六十五周年祭の実行委員長に山元治彦氏を推して体制を整え直して、その祭典に向かうことになった。

    最後に総まとめとして

 私の七十九年間の人生を色々な角度から洗い直して、私にとって人生とは何であったかを検証してみたい。
 (一) 仕事とは…その目的は金儲けであり、より豊かな生活を望んで行動することである。日本からブラジルにやって来たのもより豊かな暮らしを求めての事であり、日本での青春時代、家の為にがむしゃらに仕事に頑張った。その頃は食べる事だけで精一杯で、この状態で家の為に頑張っても自分の将来には希望が持てぬと悟り、ブラジルへの海外雄飛を決行したのである。
 私にとって、仕事とは常に肉体労働であった。十五歳の時から坂の山道を重い肥桶をかついで登ったり、海辺の波にゆれるバラス船に砂や石をかついで積み込んだり、又、ブラジルではバタタ畑作りの開墾で、大きな木の根をエンシャドンとマッシャードで掘り起こしたり、六十キログラム以上のバタタの袋をカミニョンに積み込んだり、その他色々な重労働の人生だった。若い頃から背丈百五十七センチ、体重五十七キログラムの小さな体を酷使して来て、よくぞここまで持ち耐えたものだと、我ながら感じ入っているこの頃である。
 さて仕事の目的のひとつである金儲けは出来たかと言えば、金持ちにはとうとうなれなかったけれど、七十九歳の今立ち止まって過去をふり返ってみると、何とか人並みの経済力はつけたのではと思っている。欲を言えばきりがない。今子供達の世代になって、子供達もそれぞれ安定した仕事をしているし、生活をエンジョイしているようだ。これからもまだより豊かな暮らしを望んで、子供達や孫達は頑張っていくだろう。まあ、私達夫婦の目的のひとつは一応達成されたと思っている。

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