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連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第4話

 喧嘩はめったにしなかったけれど、友達間では一応強いと言うことになっていた。当時の子供達の遊びと言えば、コマ廻しか、厚紙で出来た四角いパチンコで相手のパチンコを裏返したり、丸い線の外に扇ぎだしたり、突き出して勝つゲーム、ビー玉を穴に入れて誰が一番先に十番まで早く上るかを競ったり、凧上げをしたり、相撲をとって遊んだりで、殆ど球技は知らなかった。特に私の場合、貧乏の中にあって、そんな世界とは縁がなかったのだろう。
 戦時中、我が家の経済はどうなっていたか、幼い私は知る興味もなかったけれど、あまり仕事の好きでない父は当時から人の世話は好きとみえて、農業組合や町の短歌仲間との飲み会など結構付き合いが多かったようだ。その反面、母、ぬいに金銭的な重圧がかかって、その苦労は想像に絶するものがあったようである。当時は産児制限どころか、生めよ増やせよの時代で我が家も貧乏の中にあっても四人の男の子と四人の女の子の八人の子供を育てていた。家計は苦しかった。
 成長した長姉、純子は戦時下の昭和十八年に当時陸軍の偵察飛行機乗りの、入口晋と結婚し、熊本県菊池郡泗水村の私の伯母、りんの世話で世帯を持った。又、次姉、信代はこれも母方の伯父、伝松の所に預けられ、鹿児島で聖心女学校に学んでいた。
 この様に、母、ぬいの苦労はもうこの頃から日常化していたようである。でも、考え方を変えてみれば、戦場で父親を亡くした家族からみれば、我が家は父親は健在だったし、まだ幸せの方だったとも言えるだろう。
 私より五つ上の長兄、知足は国民学校の六年を卒えて、高等科の二年から戦況厳しい昭和十九年に甲種予科連飛行兵に志願入隊した。少年飛行兵である。だが、この戦況下で練習に使える飛行機も、又、乗る飛行機もないまま終戦を迎え、それでも家に帰って来た時は二階級上の兵曹の位を貰ってきた。戦争が済んでみれば余り値打ちのあるものではないのに。でも、知足が我が家に帰ってきた時の情景をかすかに想い出せる。服装まではよく想い出せないけれど、当時、貴重品だった砂糖を少しばかり持ってきた。
 私の兄弟姉妹についてその出生を記してみよう。
・純子(すみこ)  一九二三年八月十六日
・信代(のぶよ)  一九二七年八月二十七日
・知足(ちたる)  一九二九年十一月五日
・弥栄香(絹枝)  一九三二年二月三日
・慧 (徳善)    一九三四年十月二十九日
・三美(みよし)  一九三八年三月十三日
・巳知治(みちはる)一九四一年十二月二十三日
・七海 (ななみ)  一九四五年二月十一日

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