連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第3話

 その間、三ヶ年と八ヶ月、私は学童前期を過ごしたことになる。その大戦の前半は日本軍の前進で景気良く国民に笑顔があった。特にシンガポールを陥落した時には日の丸を振ってお祝いをし、お土産に皆、ゴムの白いボールを貰った記憶がある。
 私が学んだ所は富高国民学校で富島町の中心にあった。私達の畑浦から四㌔の距離にあって、毎日往復八㌔の道を通っていた。寒い冬の日も暑い夏の日も毎日毎日歩いた。寒い冬の日など、よく走って通ったものだった。それも競走で走った。私はいつも人には負けなかった。夏の日は靴などなく、裸足での登校であった。
 そして大戦も半ばになると日本軍の旗色が悪くなり出し、昭和十九年に入ると、日本本土への空襲が激しくなって来た。私達学童は登校する四㌔の途中が危ない、又、学校の校舎も危ないと言うことで、各部落に緊急校舎を設けて、そこに先生に来て貰って勉強した。
 昭和十九年になると、毎日の様に警戒警報が発せられて米軍機が上空に飛んでくる様になった。もう勉強に行けばすぐにブゥーとサイレンが鳴り出し、逃げて帰る様になった。一度は帰る途中、敵機グラマンが急降下してきて私たちに機銃掃射を浴びせて来て、死に物狂いで逃げたこともあった。
 その当時はすでに物資も不足しており、学校教材の消しゴムさえなかなか手に入らなかった。もちろん食べ物も充分ではなくサツマイモで飢えをしのいでいた。
 私達の富島町の財光寺には練習用の飛行場があって、いつも単発双翼の練習機が練習飛行していたのだが、戦雲慌しくなって来ると、本物の戦闘機が敵機と私達の上空で空中戦を演じるようになり、私たちは防空壕の入口でその様を見物したものだった。でも日本機は飛行場から飛び立つ処を撃ち落される場面などがあって、いつも防ぐのが精一杯であった。
 いつだったか、北の夜空が真赤に染まっていた。私たちのところから二十㌔北の延岡の旭化成の工場を中心に延岡の町が、焼夷弾攻撃で大火災を起こしていたのだった。
 米軍の本土上陸も間近かと言うことで、それを討つ銃もないので女達は竹槍を作って、エイエイヤーと敵の胸を突く練習をしていた。今思えば、吹き出しそうなくらい滑稽にみえるけれど、当時は本気であった。その様な状態の中で基礎学習時代を私は過ごして来たので、十分な基礎が出来たとは言えないだろう。でも、私はクラスでは一番にはなかなかなれなかったけれど、二番か三番の順位で通知簿は優が多かった。
 背が低いのでいつも前から二番目に並ぶことが多かった。運動神経は良くて、跳び箱など大きな同級生よりも高く跳んだ。走り方も特別ではなかったが、短距離では二番目位で、長距離では一番になることが多かった。

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