連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第69話

 花作りの生産者が集まって作った花の会の組織がその頃すでにささやかな活動はしていた。
 ブラジルの花作りは一九五〇年代からすでに始まっていたが、それはポルトガル人達が露地でありふれた草花を葬儀用とかフェスタ(パーティー)用に細々と作ってはフェイラ(市場)などで売っていたものであった。花作りが本格的な事業として始まったのは戦後の日本からの移民が、それに力をそそぎ始めてからと言っても過言ではない。特にコチア青年移民の果たした役割は大きい。
 その花の作物の移り変わりも一九五〇年代の後半はグラジオラスが盛りで、その後、カーネーション、バラ、そして電照菊とその主座が移って行った。
 私達が花作りを始めた一九七〇年代の終わり頃は、アチバイア地方でバラの露地栽培が盛んであった。私達の住むサンパウロ市より西南聖(スドエステ)方面で、特にコチア、バルゼン・グランデ地方でも、バラ作りは盛んではあったけれど、聖北のアチバイアの方が気温も高く、もっと適地と言う事で、コチア地方はバラから電照菊栽培へとより早く移行して行った。そういう時代の流れの中にあって、私達も最初、バラを始めようとしたのだが、すぐに電照菊に変わって行ったのである。

    一九八一年から一九八七年 我が家の子供達は?

 さて、一九八一年から八七年頃の私達の動きや、家族の状況はどうであったのだろうか。私達は念願の訪日も果たし、気分的にも大分落ち着きが出来て、仕事に集中出来る様になっていた。子供達の学業へも、もっと眼を向ける余裕も出来て来た。
 長女のるり子はサンパウロ大学の日本語科で学んでいたけれど、一年を経て、二年生になると、勉強が余りおもしろくないと言って、退学した。その頃、今西ミゲル君と恋愛中で、彼の助言もあったのだろう。
 サンパウロのビジネス街中心にある日本商工会議所に勤めるようになり、そこで日系社会の知人もたくさん出来たりして喜んで働いていた。その頃、ミゲル君の奨めもあって、カイシャ・エコノミカ・フェデラル(連邦貯蓄銀行)の試験に受かり、空席待ちの状態であった。そして、いよいよカイシャへの入社が近づいた頃、二年間働いた商工会議所の仕事を妹のエミに譲って退職した。
 その間、ちょっとサンヨー電気に勤めていた頃の一九八三年の六月二十五日、長い間恋愛中であった、今西ミゲル・ケイジ君と晴れて結婚したのであった。

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