連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第5話

 一番上の姉、純子と一番下の妹は二十二歳の年齢差があり、私はちょうどその中間、どちらから数えても十一才の違いであった。一番上の純子は七海が生まれる以前に結婚しているので純子姉の長男、晋一は七海よりも一つ年上である。実は七海の下にもう一人生まれる予定であったそうだ。
 母、ぬいは終戦後の食糧難の中、苦渋の出産を迫られていた。生めば十分な育児は出来ない。だけど、お腹の子はどんどん大きくなってくる。そんな時、曽根の天理教会の山岡会長夫人にすすめられて、天理教に入信した。命をかけた母、ぬいの信仰は懸命であった。それが神に通じたか流産した。それからの母、ぬいは天理の教えに没頭するようになる。
    終 戦

 さて、昭和二十年(一九四五年)八月十五日は第二次世界大戦、つまり大東亜大戦が終わった日である。今では終戦記念日として毎年、心を新たにして、日本人はその日を思い起こす日としている。
 昭和二十年八月十五日のその日は天皇陛下の奉玉放送があるから、皆ラジオのそばに集まって聞くようにとおふれが廻った。暑い日であった。山ではせみの声がわんわん耳に残っているけど、何を言っていたのか解らなかった。でも、集まっていた大人達が「日本は負けたげな」と言い出したので「そんなら今から自分達はどうなっと?」「アメリカ軍に殺されるかもしれん」「えれーこつなったなー」「でも覚悟きめんとしょうがねが」などと皆が話していた。私は国民学校の五年生で十一才であった。

    大型台風で家がつぶれる

 昭和二十年は日本が戦争に負けた年であっただけではなく、我が家にとっては最悪の年でもあった。終戦日が過ぎて間もなくの九月、実に大型の台風が私達の住む宮崎を襲ったのである。住んでいた家は藁ぶきの古い家だったので、皆親類の角おじやんの家に避難した。ただ中風で動けなかった祖母、つねだけは逃げることが出来なかった。台風が過ぎ去って家に帰ってみると案の定、我が家は柱や土台がつぶれて、わら屋根がそのまま地面に座っていた。外から「つねばあさん」と呼ぶと「おーい」と元気な声が返って来た。皆、ほっと安心した。それから、父、弥吉(やきち)はそこら辺りを走り回って、古材を集めて来て。今度はセメント瓦のみすぼらしいけど、家らしきものを建てた。畳を買うことが出来ないので、何年もの間、板の上にござを敷いての生活であった。

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