連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第93話

急いで車で二㌔先まで送って行き、そこの山道に降ろした。割合おとなしい強盗だった。
・八月二日 七海の三男、元親(モトチカ)が再度来伯、一ヵ年の予定で研修に来た(二十才)。
・八月十五日 私と美佐子の結婚四十周年。
・八月二十二日 宮崎県人会創立五十周年記念式典(黒木政助会長、荒木実行委員長)が母県宮崎より一七〇名、南北米より一〇名の使節を迎え、日本文化協会の講堂で盛大に催された。松形知事の代理で牧野出納長が団長をつとめた。私は会場係長で頑張った。
・八月二十八日 宮崎から来伯する農業研修生がいつもお世話になっているポンペイアの西村農学校に県農政水産部の西岡直巳部長、北島課長、土屋係長を私が案内、西村氏にお礼を述べ、記念品を渡した。サンパウロへの帰路は西村さんの愛用セスナ機で送ってもらった。
・九月二十九日 絵理子たち三人訪日。私達はSBCで検血、検尿。
・十月二十九日 慧の六十五才の誕生日である。定年である。人生の一つの区切りである。まだ若いつもりでも、年齢の上から、初老の入口に立ったことになる。今朝も妻の美佐子に冗談に言ったのだが、毎年自分の誕生日は思い出したり、忘れたりするが〈今年の誕生日は絶対忘れなかったぞ。なぜって、アポゼンタドリーア(年金)をもらえる日を指折り数えて待っていたからね〉もちろんこれは冗談と笑い飛ばしたけど、あとで考え直すと、一面少しは本気の部分もあるね。この頃、これほど不況が長引くと私もふところ具合が目に見えてさびしくなり、小遣いに困って来て、車で動くにもままならなくなってきた。この不況もいつまで続くのやら、見通しさえ定かでない。アポゼンタドリアをもらって、みなければ分からないが、唯今INSSで仕事をしている近所のアルマンド君に頼んで手続きを進めているところである。ともあれ私は二十年余り、一サラリオ(最低給料)のINSSを払って来て、最後の方で一ヵ年二サラリオにして残り、二年九ヶ月一〇サラリオを悟のエンプレガード(従業員)として払ってきたので最後の三ヵ年の平均となれば、一〇サラリオが基準となって、計算されるので、いくら貰えるか。でも私は余り欲は言わない。月当たり五〇〇レアイスを下らなければ最高と思っている。でも、もうよそう。〈取らぬ狸の皮算用〉なんてことになりかねないから。

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