連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第71話

 帰伯してからは、又すぐに大学に進むべく受験勉強を始め、その年の暮れに又、USPとUNESPの農科を受けたのだが、第二次試験で落ちてしまい、並行して受けていたミナス・ジェライス州境に近いエスピリット・サント・デ・ピニャル大学に入学することになった。これは私立農大であるが、この大学出身の知人の先輩が数人いたので、この大学への進学を決めたのである。年齢的にも余り待てないとの判断であった。
 エスピリット・サント・デ・ピニャル大学は、サンロッケ市から二〇〇㌔余り離れた所にあり、悟はそこで四年間寄宿生活を送ったのであった。学生生活の終わり頃には古い乗用車を買ってやった。そして、一九八四年の十二月に晴れて卒業した。私達も我が子の始めての卒業式(フォルマツーラ)に参列することが出来た。
 悟は農業大学を卒業したので、農学士(アグローノモ)である。
 すぐにコチア組合に仕事場を見つけることが出来た。私達と一緒に花作りをやるのもいいが、まず若いうちに三~四年社会勉強をした方が良いだろうとの話し合いで決めた。コチア組合の農事部の果樹課で品質管理や輸出の仕事をした。特に八○年代の末に三ヵ年位、北伯の大河サンフランシスコ河の中流農業地帯、北バイーアのジュアゼイロでメロンの輸出にたずさわり、リオ・グランデ・ド・ノルテ州のモッソローのメロン輸出も経験した。
 一九八九年十月、チエミと言う女性を伴って我が家に帰って来た。
 勿論コチア組合は退職したわけである。チエミとは、その後、色々なことがあって、別れた後、一九九〇年八月に花の研修で日本に行く事になり、全拓連(JATAK)の紹介で愛知県渥美町の小久保農場で電照菊栽培の技術を学んだ。
 一ヵ年の研修を終えて、一九九一年八月に帰って来た。つけ加えると、この悟のJATAKを通じた研修が発端となって、JATAKの農業研修が制度化され、以後、十年間位ブラジルの若い農業青年が日本で学ぶ機会を得たのであった。
 さて、悟が日本での花の研修から帰伯して、いよいよ私の仕事の肩替りをしてくれるようになった。悟が高校を卒え、農業の道に入って十一年目である。悟の一九八〇年代の出来事はこれ位にしておこう。
 次は、次女の恵美の一九八〇年代の出来事である。
 恵美は悟と二つ違いだから、高校を卒えたのは一九八一年の十二月である。彼女の高校生活はバルゼン・グランデの日語校の寄宿舎から毎日サンロッケの高校に通学していた。日語校では日本語の勉強以外、バレーボールなどのスポーツなど、少しはやっていたようだけど、特別なものではなかったようである。

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