
犬も歩けば棒に当たるというが、驚いたことに知っていた。日高とは同業で彼の店から部品を買ったことがある、という。その時の領収書を探してきてくれた。それに記された住所はマリリアだった。
筆者は、またオニブスに乗り、先ほど来た道を引き返した。
マリリアに着き、日高の店までタクシーで行った。店内はかなり広く天井が高かった。通路以外は自転車の部品で埋まっていた。
受付に居た日系人に名刺を出し、日高に会いたい、と頼んだ。名刺には筆者がジョーナリスタであることを記してある。それだけで、用件は判る筈だった。
その受付の日系人は(後で日高の息子と分かったが)奥へ行って屋内電話を取りあげた。低い声で何か話している。当人は居る様子だった。
ここからが山場だった。会ってくれるかどうか…。自分が昔やった殺人事件を、容易く人に話すかどうか…。家族もいる。記事になれば、迷惑を被ろう。筆者が、その立場なら断るであろう。
ところが、会うということだった。ホッとした。案内されて階上の部屋に移った。
小柄な老人が、そこにいた。
その初印象については、七章で記したが、簡単に繰り返すと、
「明るく話好きの七十代半ばの好々爺」
という感じだった。
元テロリストとは到底見えなかった。
筆者が用件を話すと、
「マア、そこにお掛ンサイ」
と、そばの長椅子を指さした。
日高は、
「やったことは、事実なのだから…」
とアッサリしていた。やったこととは、襲撃である。
日本などでは考えられない応対だった。
その話によると、ツッパン組三人の内、北村はすでに故人になっており、山下はサンパウロで健在だという。
四月一日と六月二日の襲撃事件については、
「何故やったのか、よく覚えていない。が、急にそうしたのではない。発作的にやったのでもなければ、気が狂ったのでもない。が、何故やったのか…想い出せない」
と顔をしかめながら腕を組み、顎を指で軽くつかみ、部屋の中を行ったり来たりした。
結局、この日は明確な答えは聞けなかった。
が、以後、何度も会う内、次第に襲撃決行に至るまでの経緯(いきさつ)を思い出してくれた。
そして、この人も押岩同様、襲撃を「後悔していない」と言った。写真の使用もアッサリ承知してくれた。
以下は、その決行に至るまでの経緯である。
彼の少年時代については、これも七章で記した。一言でいえば、純粋な軍国少年として育った。
一九四一年の日本の開戦時は十六歳で、ツッパンに住んでいた。
しばらくして知人がバウルーへ行き、帰ってきて、
「日本領事館で、入り口の上の方に掲げてあった菊の御紋を外しているのを見た」
という話をした。
バウルーは、ツッパンから東へ百数十㌔に在り、ここから五方向へ走る鉄道の沿線には日本移民が多数、入植していた。そのため日本の領事館が置かれていた。
「生涯、あれほどの寂しさを感じたことはない。日本から忘れられたのか…と。今でも、その時のことを想い出す」
と、日高は涙ぐんだ。
日本へ帰りたかった。父親を、
「何故、自分を連れてブラジルへ来たのか!」
と責めたこともある。
当時の日高少年は、ラジオ屋から買ってきた部品で組み立てた短波の受信機で、東京ラジオを聞いていた。
その他にも、種々の情報を耳にし、目にしていた。
その中に『海外の日本人に与える勅語』というものがあり、文中に、
「長く日本精神の美を保持せよ」
「艱難辛苦を克服して…」
という言葉があった。涙が流れた。慰められた。気持ちが落ち着いた。
ずっと後年になるが、日高は、そういう勅語は出ていないという話を耳にした。
とすると、誰かが作った勅語だったかもしれないが、その言葉に感動したことは事実という。
日本の降伏の報を聞いた時は、瞬間、これは敵の謀略だと思った。前日まで敵艦何隻轟沈…などと凄い戦果を発表していたのが、一転して降伏などということはありえない、と判断した。
日本が敗けるようなことは絶対ないが、もしあるとすれば全日本人が死ぬ時━━と信じていた。
だから(前章で触れた)日本から届いたという終戦の詔勅の写しを見た時も、ニセモノであり、その偽詔勅を伝達するということは、敵の謀略に加担する行為であると憤激した。(つづく)