ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(192)

 『我々は、臣道連盟の院外団ということでもよいのですが…』
 と言うと、
 『イヤ、そういうものが在ってもらっては困る』
 と…。
 吉川さんは、戦勝派と敗戦派の対立は、平和に事を収めようという考え方であった。
 話が噛み合わない、という感じだった。
 『ヤル』とは襲撃の意味だが、改まって表現する場合は、決行という言葉を使った」 
 この吉川の応対ぶりは、前章で記した通説、認識派史観の「臣道連盟=テロ組織」説とは、印象が大きく異なる。
 押岩は語り続けた。
 「我々は、キンターナに帰って、
 『臣道連盟や吉川中佐は頼るべき相手ではない』
 と同志たちに伝えた。
 当時、戦勝派からは、臣道連盟の他にも在郷軍人会、日の丸倶楽部、精華連盟…と色々な団体が生まれていた。臣連以外はごく小さかった。
 そういう所から我々に参加の誘いがあった。が、総て断った。そして臣連とも、そういう団体とも異なる特別の行動(襲撃)をとる━━という意味で、特別行動隊、つまり特行隊と名乗ったのである。日本の特攻隊を真似たのではない。
 特行隊の同志を募るについては、当然、臣連その他の団体に属している者は外した。
 これは…という男たちに声をかけて歩いたのは、新屋敷砂雄で、四十歳近かったが、青年運動のボス格であった。牧場をやっていた」
 その呼びかけにキンターナとその東隣りのポンペイアの次の七人が応じた。(カッコ内は年齢)
 〇キンターナ 
 本家政穂(39)
 上田文雄(34)
 谷口正吉(32)
 吉田和訓(30)
 蒸野太郎(27)
 〇ポンペイア 
 渡辺辰雄(33)
 池田満 (30)
 新屋敷と押岩を含めて同志は九人となった。
 押岩は三十六歳だった。
 職業は本家がブリキ屋、池田が行商、他は農業(棉作り)だった。
 なお蒸野は「むしの」と読む。
 皆、特別の人間ではなかった。もし、こういう特殊な時局に遭遇していなければ、普通の生活を送った筈の人々である。
 それが決起した。決起させたのは日本型ナショナリズム(七章参照)の血であったろう。
 同時期、キンターナの西方のツッパンでも、同じことを決意した若者たちがいた。次の三人である。
 北村新平(26)
 山下博美(21)
 日高徳一(20) 
 北村は果物の行商をしており、山下は姉夫婦の営む精米所で働いていた。日高は父親のバールを手伝っていた。
 この三人がキンターナ、ポンペイアの九人と合流、前章で記したサンパウロに於ける四月一日と六月二日の襲撃事件を起こすことになる。(翌年一月六日の事件は、押岩以外は顔ぶれが変わる)  
 筆者は、その人々に会いたいと思い、消息を知らないか、押岩に訊いてみた。こういうテーマの取材は、当事者に、どれだけ多く会えるかどうかで成否が決まる。
 押岩は指折り数えながら、一人一人の名を上げつつ、思い出してくれた。が、「アレも死んだ、コレも…」という具合だった。
 殆どが故人になっている様であった。生きている者が居るかもしれないが、何処に居るか知らないという。 
 最後に、
 「ツッパン組の日高がパウリスタ延長線(地方)のどこかで生きている、と風の便りに聞いたことがある。が、住所も電話番号も…」
 と首を横に振った。

 日高徳一

 その言葉だけを頼りに、筆者は数日後、夜行の長距離オニブスに乗った。汽車は…特に客車はもう運行していなかった。
 高速道路を走り続け、深夜、バウルーを過ぎパウリスタ延長線地方に入った。
 やがてマリリアを経て、夜明け前、キンターナの停車場に降り立った。押岩が昔、住んでいたという所だ。一度見ておきたい、と思ったのである。
 間もなく夜が明けた。空気は清らかだった。小さく綺麗な市街地があり、道路はすべて舗装されていた。
 押岩たちが住んでいた頃は、土や板で作った小屋が多く、風が吹けば土埃が舞う━━西部劇に出てくる様な━━開拓地だった筈だ。
 ぶらぶら歩いて行くと、すぐ町外れに出た。そこに自転車の修理屋があった。偶然、家の中から初老の日系人が出てきた。
 頑固そうな、昔の日本人によくあった顔つきだった。
 (若い頃は戦勝派だったのではあるまいか…)と勘が働いた。
 もし、そうだとすれば、この地方から出た日高の名を知っているかもしれない。
 筆者は、空振り覚悟で訊いてみた。
 「日高徳一という人を探しているのですが、ご存知ありませんか?」(つづく)

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