ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(183)

 そこで少年期を送った梅田清(ブラジル生まれ)が、二〇〇七年、七十三歳の時に筆者にしてくれた話がある。
 ここには四百家族近くの邦人が居ったが、皆、戦勝派で、明確な敗戦派は一人だけだった。
 その敗戦派の老人は、息子夫婦と暮らしていた。夫婦が営むソルベッチ店は、老人のために誰も客として来なかった。やむを得ず店を売って、一家は何処かへ引っ越した。
 すると店主が変わったその日から、お客がワンサと来た!
 戦勝派が一人だけだったというのは極端な事例だが、当時、地方の邦人の集団地では、何処でも戦勝派が圧倒的に多数で敗戦派は少数であった。
 逆に、情報の多いサンパウロの様な大都会では、終戦直後から敗戦を認識、転向する人が多かった。その速度も速かった。敗戦派の比率はドンドン増えて行った。
 しかし邦人の殆どは地方の農業地帯に住んでいた。
 それと、もっと簡単なことだが、人というものは信念、信仰とまで行かなくとも、長いこと思い込んできたことを突如覆されても、頭がついて行かないものである。特に地方の場合、その傾向が強い。
 筆者は、その事例の一つを体験している。
一九九四年、日系社会の最大の城郭であったコチア産業組合の瓦解が、突如表面化する直前、筆者はごく少数の知人に、それを洩らしたことがある。
 しかし誰も耳を傾けなかった。コチアは絶対的な存在であり、瓦解などということは、彼らのコチア観の中ではあり得なかったのである。
 筆者にしても、瓦解の兆候をかなり早く知り、取材を続けていたために漏らすことができたのだ。
 当初は消息通の知人が「コチアは潰れるのではあるまいか」などと口にしても、仮の話と受け止めていた。
 瓦解が表面化した後でも、地方では、長く半信半疑の組合員がいたものだ。筆者は、そんな組合員たちと会ったことがある。
 その折、彼らがこちらを見る目に驚いた。「コチアは、潰れてなんかいないンだろう」と、同意を求めていたのだ。
 ともあれ、本章の冒頭で記した「終戦直後、日系社会は、祖国日本は戦争に勝ったと信じる戦勝派と、負けたと認識する敗戦派に分裂」という部分は事実とは大分違うということになる。
 また通説、認識派史観の戦勝派=狂信者という決めつけ方も間違いである。
 常識的に考えても、そうであろう。終戦当時、邦人社会の人口は二十数万、ひと口に三十万と言われた。幼少年者は除かねばならないが、それだけ多数の人間の大半が、一時に狂するなどという発病現象が起こることは、現実問題としてありえない。
 戦勝派の頭脳は正常だったのだ。
 ともあれ、全体的に観ると、戦勝派から敗戦派への転向者の数は年々、増えて行った。
 終戦七、八年後、泉靖一という東京大学の教授がブラジルを訪れ、日系社会の研究者とともに、調査した関係資料がある。『移民―ブラジル移民の実態調査』という書名で出版された。
 その中に、祖国の勝敗問題に関する邦人の意識に関する記事がある。それによると一九五二、三年時点で、次の様な比率になっている。
 一四・五㌫ 敗戦派
 五六・九㌫ 内心では敗戦を知っているが、負けた負けたと口にすることを嫌っている人
 二八・六㌫ 頑固な戦勝派
 ということは、この頃には、終戦までは一〇〇㌫戦勝派だった邦人が七〇㌫以上、実質的に敗戦派に転向していたことになる。
 そこまで行くのに七、八年かかったわけだ。
 ほぼ一〇〇㌫まで行くのに十年くらいかかっている。(以後も、戦勝を信じ続けた人もごく小さな比率ながら居た)
 その間、既述の大騒乱が日系社会に巻き起こったのである。
 しかし、先に記した様に「敗戦報で一時は強烈な衝撃を受けたものの、それが信じられず、またラジオ放送やビラ、パンフレットで戦勝報が流れたため、八月十五日まで抱き続けていた信念・信仰を翌日以降も抱き続けただけだったという至極、自然で単純な現象」が、何故、大騒乱に発展してしまったのだろうか?

 状況誤認の連鎖

 その答えを先に明示してしまうと、
 「状況誤認の連鎖が続いたため」
 ということになる。
 以下、それを一つ一つ追跡して行く。
 話は再び終戦直後のことになるが、様々な戦勝報の中に、
 「日本の軍艦が、同胞の移民を祖国に迎えるためサントスに入港する」
 という話があった。(つづく)

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