ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(186)

 まず、式に出席した地方代表が詔勅や外相通達、趣意書を地元に持ち帰り、配布したところ、それに戦勝派が猛反発していたのだ。何処でも、そうであった。
 そこに地方巡回までしようとしたものだから
 「先月の集会に次ぐ今回の伝達式、その上、地方巡回までして、敗戦を押し付けるとは!」
 と怒りが倍増してしまっていた。
 それをよく知らず、十月後半、まず宮腰が野村と共に、地方に於ける代表的な邦人集団地であったバストスを訪れた。
 が、戦勝派が激昂しており、説明会など開ける雰囲気ではなかった。
 やむを得ず、そこから南西へ約八〇㌔のプレジデンテ・プルデンテへ行った。
 ここでは、説明会は開催できたが、やはり激しい反発を受けた。詔勅も、
 「英語で書いた詔勅などあるか!」
 「陛下の御印のない詔勅など、認めるわけにはいかん」
 と撥ねつけられた。
 さらに、
 「日本からの正式の使者を待て!」
 と叱責された。
 隣のアルバレス・マッシャードへ行っても同じだった。
 何処でも戦勝派の怒りは、身の危険を感じるほどだった。
 宮腰たちは、これに驚き、以後の予定を中止してしまう。
 常盤ホテルでの集会、コチア産組での伝達式、地方巡回…つまり認識運動は、状況誤認による発想だったことになる。
 またも、その連鎖が起こったのである。
 前二回の誤認は戦勝派が犯したが、今回は敗戦派が犯した。
 コチアの下元健吉も独自で動き、地方へ出張、組合の施設で、組合員に敗戦認識を説いた。が、会場では、戦勝派が殺気立ち、護衛役を務めていた一青年は「生きて、この会場を出られないかもしれない」と緊張したという。
 かくして戦勝派と敗戦派の間に醸し始めていた対立的空気は険悪化して行った。
 その過程で認識運動に対抗するため、戦勝派の団体が次々、各地で結成された。
 この章の冒頭で記した社会的亀裂とは以上の動きを指す。
 要するにボヤを消そうとして火事にしてしまったのである。しかも炎は勢いづき、アチコチへ飛び火して行った。 
 前出の蜂谷専一も、「結果としては…(略)…戦勝デマの火に油を注ぐことになり、不安と疑惑に極度の動揺を示していた在留同胞を、戦勝デマを信ずる方向へ追い立てて行った」と記している。
 なお戦勝派からは、後に次の様な主張がなされた。
 「日本が勝ったと思って、それが、どうしていけないのか。
 日本から正式の公報が来ない段階で、敗戦報と戦勝報が流れた。我々は子供の頃から、日本は戦えば必ず勝つと教えられてきた。
 戦勝報の方を信じるのは当然ではないか。勝ったと思いたい者には、思わせておけばよいではないか」
 「敗戦認識の啓蒙運動、それがマズかった。そういう余計なお節介をするから、それが反感を買い、両派の対立が生まれ、過激化し、遂には血を見てしまったのだ。
 つまり啓蒙運動とやらは、逆効果を招いたのだ」
 状況誤認は、この後もまだまだ様々な場で起こる。つまり連鎖に次ぐ連鎖が続く。

 藤平正義

 なお、前記の終戦事情伝達趣意書に署名した七人は、後世、敗戦認識運動の指導者の様に見られているが、事実は違う。
 彼らは担がれていたに過ぎない。宮腰は多少のことはしているが、ほかの六人はたいしたことはしていない。
 彼らを担いでいたのは野村忠三郎とその仲間である。その仲間の一人に藤平正義という男が居た。
 この男の場合、認識運動でやったことは運動というよりも戦闘であった。本人自身、後に「斬り込み隊長だった」と自負している。先頭を切って敵中に攻め込んだという意味であろう。敵は戦勝派、特に臣道連盟であった。
 藤平は、一寸見では顔が喜劇役者の様だったため、軽く見られていたが、実際は恐ろしい一面のある男だった。
 千葉の生まれで、学生時代は硬派で「早ドスのアン(兄)ちゃん」と異名をとったり、ストライキをやって放校されたりした。
 ブラジルに渡った後も、喧嘩をよくやり強かったという。相手のブラジル人の顔を刃物で斬ったこともあったという。これは彼の友人であった内山サンパウロ新聞編集長の回顧談である。
 千葉の父親は県政界のボスであった。
 藤平は奥地の農場で働いていた時、肺を病み、父親に電報を打った。
 「金を送ってくれ。このままでは死んでしまう」
 と。すぐ返信が届いた。その文面は、こうだった。
 「死ね」
 これで奮起、バケツに塩水を入れ、それでうがいをしながら働いた。(つづく)

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