この、日本から迎えの船が来るという話は、九章で記したが、戦時中から存在していた。
それが、戦争が日本の勝利で終わったのであるから「愈々来る」ということになったのである。
当時の素朴な庶民にとっては、
「やっぱり!」
という快心の思いがあった。
当時、邦人商業界の代表的存在であった蜂谷専一の自伝にも、
「(終戦の)翌日か翌々日…(略)…友人の梅田久吉を先頭に数人がどやどややって来て…(略)…『日本の海軍が近くサントスに上陸するから、その歓迎準備を』…(略)…そんなことはあり得ないと反論しても、納得するどころか、こんどは居丈高になって、せっかく親切に誘っているのに自分たちの好意がわからないのかと怒り出す始末」
という一節がある。
この軍艦来航の話は地方でも、かなり広く伝わった。
押岩嵩雄の居ったキンターナでもそうであった。
押岩談。
「その頃、何々大尉とか何々中尉とか名乗る連中がアチコチに現れていた。キンターナにもやってきた。『日本から迎えの船が来る。南方へ移住させる』といった話を持ち込んだ。
が、ワシは皆に、勝ったという話も鵜呑みにしてはいかんし、たとえ勝ったとしても、そんな日本から迎えに来るという様なことが、簡単にできる筈はない。迂闊に連中の話に乗ってはいかんと注意していた」
何々大尉とか何々中尉というのは、当時現れた詐欺師で、本書の数章先で登場することになる。
なお、右の押岩談の中にある様に、彼は、コチコチの戦勝派ではなかったのである。むしろ中間派に近い。それが何故、既述の特行隊による襲撃を決行したのか?
この点は改めて次章で考える。
軍艦来航については、蜂谷や押岩の様に否定した人もいたが、何処でも「来る」と信じた人が少なくなかった。
「祖国の戦勝」に次いで、それに連鎖する形で、ここでも状況誤認が起こったのである。
「来る」と信じた人々の一部は、ジッとしておられず、サントスに近いサンパウロへ地方から出てきた。ここを足場に情報を集め、船が来たら、港へ移動しようとしていた。
この待機組の数千人が、異様な雰囲気を漂わせながら、街路を往き来、非日系の市民を不気味がらせ、警察への苦情となった。
警察はポルトガル語の新聞の紙面で日本人自身による収拾を要求した。
軍艦は無論、現れなかった。待機組の中には諦めきれず、サントスやその近辺に住み着く人々すらいた。
なお、この軍艦来航説は、その話が流れた場所によって、入港地はサントスの代わりにパラナグアになったりリオ・デ・ジャネイロになったりした。
話が流れた場所から一番近い港が選ばれていた。
二〇〇五年現在、サン・ジョゼー・ドス・カンポスに実藤(さねふじ)亨という元市会議員が住んでいて、その経験談を話してくれた。
彼はブラジル生まれで終戦時は十六歳、(サン・ジョゼーから東北へ約90㌔地点に在る)山頂の町カンポス・ド・ジョルドンの近くで、家族と共に暮らしていた。
そこで「何月何日、リオに日本の軍艦が入港する」と聞いた。カンポスはサントスより、リオに近い。
実藤は当日、同じ歳の仲間と共に出かけてみた。しかし港で待っていても、軍艦は一向に姿を現さない。
そのうち、偶々会った日本人から「軍艦など来る筈がない。日本は負けたのだ」と諭され、引き返した。
同じ日、彼の母親は
「今日、この辺の上空を日本の飛行機が飛ぶ」
と聞いた。
母親は小さな子供たちを連れて、見晴らしの良い所まで見に行った。無論、無駄に終わった。
軍艦も飛行機も、その話は「何処からともなく聞こえてきた」という。
なお軍艦来航の話が広まった後、それに関連、一つの醜聞が広まった。
「臣道連盟がその軍艦で来る使節の歓迎会を開くという名目で、多数の邦人から募金をした。ところが、軍艦が来なくても連盟は、集めた金を返却しようとしなかった。それで、これは詐欺であるという声が上がっている」
という内容であった。
この時、この問題が原因で、連盟幹部の一人山内清雄が脱会、別に在郷軍人会という戦勝派の団体を同志と設立している。山内は、前章で触れたが、臣連の前身である興道社の創立者の一人であった。(つづく)