ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(182)

 八月十五日までは一〇〇㌫戦勝派だった!

 話を本筋に戻すと、終戦後、邦人の多くが戦勝を信じた一方で、敗戦を認識した人もいた。
 その両者の比率であるが、資料によってマチマチである。
 これは改めて調査した数字ではなく「自分の周囲では、この位の割合だった」といった類いの概数であるから、そうであるのは仕方ないが、差が大きすぎるのだ。
 戦勝派が十割近くを占めたという資料もあれば七、八割とか五、六割という資料もある。(勝ったか負けたか判断できないという中間派もいた。それを除いた比率である)
 何故なのか、その辺が判らず、こちらの頭の中がモヤモヤし続けた。
 それをスッキリさせたくて、前記の池田を取材中、何気なく話題にしてみた。
 すると、その時、池田はパッと口を開くや、切って捨てる様に、こう言った。
 「八月十五日までは一〇〇㌫戦勝派だったンだ!」
 言われて改めて気づいたのだが、当時の邦人は終戦までは、誰もが日本の最終勝利を信じていた。戦況の悪さに気づいていた人も挽回を祈っていた。
 そういう意味では、たしかに一〇〇㌫戦勝派だったのだ。
 厳密には、戦時中かなり早くから敗北を予想していた人、終戦直前、ポルトガル語のニュースの敗北報を信じた人もいた。
 が、その比率は極小であったから、池田は、それは除外して、大雑把に一〇〇㌫と表現したのであろう。
 池田は、つまり、次様なことを言おうとしていたのである。
 「多くの人が勘違いしているが、終戦を境に、日本は戦争に勝ったと信じる戦勝派が〝生れた〟のではなく、それ以前から戦勝派だった人々が、敗戦報で一時は強烈な衝撃を受けたものの、ラジオ放送やビラ、パンフレットで戦勝報が流れたため、八月十五日まで抱き続けていた信念・信仰を翌日以降も抱き続けることにしたのである。
 ところが、敗戦を認めざるを得ない情報に接したり、そういう体験をしたりして、敗戦派に転じる者が出、時と共に転向者は増えて行った。
 だから、資料によって両派の比率がマチマチだったのは、その話を採取した時期や場所が違っていたからである」
 この池田の説明で、こちらの頭の中がスッキリした。
 ところで、右の「時期や場所が違っていた」の時期についてであるが。――
 敗戦派に転じた時期は、人によっても異なっていた。これは当然のことであったろう。
 池田の場合、終戦後七年間は戦勝派で、その後、敗戦派に転じたという。
 彼は一九五二年、日本は勝ったと信じたまま帰国した。その船には、やはり戦勝派の邦人が五、六家族乗っていた。
 日本で池田は、アメリカ兵の腕にブラさがって歩く日本女性を見て、ドブに突っ込まれたような気がした。敗戦を悟った。
 二年ほどしてブラジルに戻り、今度は敗戦派として戦勝派と論争した。その後、地元の文協の会長を務めた。
 文協会長を務めるほどの人でもそうだったのである。それも日本に行くことができたから敗戦を認識できたのだ。
 普通の、そして訪日の機会もなかった人々が、何年もかかったのはやむを得ないことであったろう。
 因みに当時、日本でも終戦の日までは、国民の総てが最終勝利を信じていた。この場合も極小の比率で、そうでない人もいたが、大雑把に言えば、そうであった。
 そういう意味では、日本でも一〇〇㌫戦勝派だったことになる。ただ、国中が敵の攻撃で被災、戦況の悪化は身体で判っていた。それと確かな敗戦報が流れた。ブラジルの様に戦勝報は流れなかった。
 だから全国民が短時間で敗戦を認識した。つまり敗戦派に転向した。
 ブラジルの邦人は祖国の戦況の悪化を知らなかった。ある程度気付いていた人々も、それを身体で味わったわけではない。加えて戦勝報が流れた。
 それと信念・信仰というものは、そう簡単に変えられるものではない。
 敗けた日本が勝ったと信じた――という妖しげな現象の正体は、以上の様なものだったのである。
 至極、自然で単純なことだったのだ。
 次に「時期や場所が違っていた」の場所であるが、戦勝派と敗戦派の比率は、地方と大都会では大きく違っていた。
 地方では、戦勝派の比率が圧倒的だった。
 サンパウロ州西北部、ビリグイ市やその周辺には邦人の植民地が多かったが、その一つに、サントーポリスという処があった。(つづく)

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