
皇室の温かなお心に触れることは希望の光
謹んで、心よりお慶び申し上げます。
佳子内親王殿下のご来伯は、私どもにとりましてこの上ない光栄に存じます。遠く異国の地においても、日本国とのつながりと皇室の温かなお心に触れることができることは、日本人移民の歴史において、まさに希望の光であり、励ましでございます。殿下のご健勝とご多幸、そして今後の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
今年2025年、私はちょうど父が亡くなった時の年齢、81歳を迎えました。これまでの人生を振り返ると、私は父の生涯と比べても、はるかに恵まれた、幸せな人生を送ってこられたと感じています。
父は熊本県下益城郡の出身で、19歳の時、先に移民していた兄を頼りに、1934年、アリゾナ丸という移民兼貨物船でブラジルへ渡りました。農業には不向きだった父ですが、南米で一旗揚げようと意気込んでいました。兄の家には10日ほどしか滞在せず、サンパウロに出て、同郷の方が経営していた「東洋ホテル」の女将さんを訪ね、仕事を紹介してもらいました。
その働き先が、ドイツ人の歯科医のもとでした。父はそこで歯科技工士の仕事を手伝いながら技術を身につけていきました。その頃のことは、父の残した古い日記に詳しく記されています。

父の日記に記された家族の思い出
母も熊本県熊本市の出身で、当時、辛島町で「不二家」という料亭を営む家に生まれ、何不自由のない環境で育ちました。しかし13歳の時、一家そろって移民としてサンパウロ州のモジアナ鉄道沿線のDumontコーヒー農場に配属されました。
母の実家、奥村家からは、日露戦争に5人が従軍しており、母方の祖父は乃木希典将軍率いる第三軍の歩兵として戦った記録があります。母がブラジルへ渡ったのは1930年のことでした。以後、7年間にわたり毎年のように農園を転々とし、苦労を重ねた末に、かつて熊本の「不二家」で働いていた「おたねさん」がブラジルに来ていることを知り、連絡が取れて再会を果たすことができました。
奇遇なことに、その「おたねさん」は父が世話になった「東洋ホテル」を、サンパウロ市のコンデ・デ・サルセダス街で経営していたのです。母はそのホテルで働くことになり、そのとき既に19歳になっていました。ようやく人生に明るい兆しが差し始めた頃でした。
一方の父は、日本人の多い各地の集落を巡りながら、当時は資格がないままに巡回歯科医として働いており、サントス市に居住していました。戦前のサントス港には、月2回ほど移民船が入港し、その度に街は活気づき、商業も繁盛していました。父の日記には、当時の苦労、喜び、お世話になったお店の女将さんや、治療を施した沖縄県出身者との交流などがびっしりと書き記されています。
その後、知人の熊本県人の紹介で、サンパウロ市に住む母・敏子と出会い、二人は結婚に至りました。

サントス強制立退で追われた両親
ちょうどその頃、世界は未曽有の大戦の渦中にありました。1941年12月7日、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の報道を、父はラジオにかじりついて短波放送で聞いたと、日記に記しています。まさに歴史的瞬間の生きた記録です。
この攻撃を受け、ブラジル政府は北米側に立ち、日本へ宣戦布告。こうしてブラジルも第2次世界大戦へ突入し、在伯日本人は一転して「敵性国民」として扱われ、大使館や総領事館も撤退し、代表を持たぬ民として混乱の渦に巻き込まれていきました。いわば「さ迷う民」の時代の幕開けです。
それから1年7カ月後の1943年7月7日、サントス沖でブラジルの貨物船がドイツの潜水艦によって撃沈され、犠牲者と甚大な損害が出る事件が発生しました。これを受けてヴァルガス政権は、サントス地域を戦時地域に指定し、日本人・ドイツ人に対して24時間以内の強制退去命令を出しました。これは、在伯日系移民史において最大の事件の一つとされています。
父の日記には、当時のことが次のように記されています:
1943年7月2日
「米艦隊、太平洋方面ほぼ全滅。アッツ島における日本軍全滅は、この戦争での第一の残念なる出来事であった。しかしながら、再び奪還することに期待している。ドイツ軍は英本土およびソ連への総攻撃を続行。アフリカ戦線は独伊の敗北に帰す」
1943年7月7日(サントス退去命令)
「この日、突然日独人に対してサントス退去令がオルデン・ポリチカ(治安当局)より出される。即時退去令に、皆一時は大混乱。午後3時ごろに自宅にも命令が届く。その日は一日中、領事館(スペイン)や友人との連絡に飛び回る。夜には歯科器具の一部だけをパラグアスーに発送。スペイン通貨に替える際、刑事に捕まって難儀する。翌8日午前10時、一行700名、サンパウロ市へ向けて出発。同日午後3時到着。先着の友人たちと情報交換。厳重な警護の下、各種手続きを終え、その夜は収容所で一泊。娘・雪子がかわいそうであったが、案外元気であった。夜は友人たちと戦局の動きや今後について一晩語り合った。」

父の日記に『今に観ていろ』の一言
そして昨年、2024年7月25日。ブラジリアにて、ブラジル連邦政府・人権市民権省傘下の「恩赦委員会」による、第2次世界大戦中および戦後の日本人移民に対する人権侵害についての審議と謝罪表明が行われ、いわれなきスパイ容疑がようやく晴らされることとなりました。
私もこの歴史的な瞬間に立ち会うことができ、取材に来ていたメディアの記者の方から「どのようなお気持ちでこの謝罪を受け止められましたか?」と問われた際、次のように答えました。
「父は、突然敵国のスパイとして捕らえられるという屈辱を受けました。しかしその悔しさは、日記に残された『今に観ていろ』という言葉の通り、80年後に現実のものとなりました。父は天国で、ようやく胸をなでおろしていることでしょう」と。
2025年5月18日記