
「これまでの苦労が自分の薬になっている」―。そう語るのは、サンパウロ市ピニェイロス区にアトリエを持ち、エアブラシを中心とする絵画技法を生徒たちに教える画家の伊藤薫(かおる)さん(長崎県長崎市出身)だ。「移民の日」である今月の6月18日に米寿(88歳)の誕生日を迎える伊藤さんは1945年8月9日、米軍が長崎市に投下した原爆で吹き飛ばされた経験を持っており、世界平和と先人への鎮魂の思いを自身の作品でも表現している。戦後80周年が経った現在、伊藤さんが体験してきた壮絶な半生を改めて取材した。(松本浩治記者)
投下1週間後、叔父の右腕だけ奇跡的に発見
伊藤さんが生れて100日目に、父親は他界した。そのため記憶にはないが、父親は生前は任侠の世界に身を置いていたため、「(極道の)若衆たちがいつも家に出入りしていて、子供の頃は(周りから恐れられて)親友などできなかった」という。
そうした環境で育った伊藤さんは1945年8月9日、長崎市内の祖母の花畑で仕事を手伝っている際、米軍の原爆投下により、隣の畑の垣根まで飛ばされた。当時、8歳。爆心地から2・5キロの場所で被爆した。しかし、当時は原爆の恐ろしさなど誰も知らない。

長崎市内の三菱兵器製作所で働いていた父親の4番目の弟(叔父)の消息を捜しに、別の叔父(父親の3番目の弟)と一緒に同市内へと入ったのが、8月17日のこと。原爆投下から1週間以上が経っていたが、焼け野原になった工場跡地には、真っ黒焦げになった死体の山が積み重なっており、誰が誰だか分からない状況になっていた。そうした中で、「伊藤」と入れ墨が彫られていた叔父の右腕だけを奇跡的に発見し、せめてもの供養のために自宅に持ち帰ったという。
その頃から伊藤さんは柔道や極真空手を始めていたが、成長するにつれ、自分を取り巻く「任侠」の世界に嫌気が差していた。10歳の時に叔父(父親の妹の夫)の影響で絵画に興味を持ち、将来的に東京で絵の勉強がしたいと、新聞配達などのアルバイトを掛け持ちする傍ら、叔父の美術関係の仕事も手伝い、金を貯めた。当時の雑誌に載っていたエアブラシを使用した絵画写真に魅了され、東京ではなく、イタリアに留学することを決意。厳しい性格の母親には「この親不幸者め」と叩かれながらも意志を曲げず、16歳で単身イタリアへと旅立った。
16歳でイタリア美術の武者修行
ローマ市営の美術学校には世界中から学生が集まっていたが、決められた授業の時間だけではエアブラシ技術を習得するのは難しい。伊藤さんは他の誰もがやらない、教室の床磨きを一人で黙々と続けていたところ、そのことが校長の目に留まり、授業終了後の夜間に特別に学校のエアブラシを使用させてもらうことができた。
さらに、幼少の頃から習っていた書道をエアブラシに応用し、西洋の生徒にはない技術を身につけることができた。周りから尊敬の眼差しで認められ、「自分の国でその技術を教えてほしい」とスペイン、フランス、米国(ニューヨーク)を渡り歩き、エアブラシの技法を教授しながら自らも勉強していった。
19歳になる前に日本(長崎)に一時帰国した際、ブラジルに移民として渡っていた親戚と会う機会を得た。「ブラジルで絵を描けば儲かるよ」という言葉に伊藤さんは、ブラジル行きを決めた。しかし、ひょんなことから伊藤さんの空手の腕が軍部に知れ渡り、「お前の空手の技を軍部で教えてくれ」と依頼され、思いがけずパラグアイとの国境地域であるポンタポランで軍部の仕事に従事することになった。そこでは、空手とともに絵画も教え、1年間半を過ごした。

サンパウロでデザイン会社立ち上げ
その後、サンパウロで本格的に広告デザイナーの仕事を始めたが、最初の半年間は仕事もなく、収入もなかった。伊藤さんは毎日、6軒ほどの広告代理店等を回って自らの作品を売り込んだが、当初は作品を見てもらうことすら出来なかったという。日本への帰国も覚悟していた頃、ある広告代理店でクレーンの重機を描いた作品を見せたところ、「こんな精密な絵画を描く人間がいるのか」と驚かれ、仕事のオファーを初めてもらうことができた。
その後は口コミなどで伊藤さんの存在が知れ渡り、仕事量も一挙に増えた。フリーランスとして米系の広告会社でも数カ月働いたが、「自分でやった方がもっと儲かる」と22歳の時に広告兼デザイン会社の「伊藤スタジオ」を立ち上げて独立。「金を数えることができないくらい儲かった」という。その間、25歳の時に親戚の娘と結婚し、3人の子供にも恵まれた。
23年間にわたりブラジルで仕事してきた伊藤さんに、日本の大手自動車会社から「引き抜き」の話があったのは42歳の時。オファー額が良かったこともあったが、20年契約という好条件により、今度は一転、日本の東京で暮らすことになった。家族で日本に転住し、出張仕事で欧米やアフリカなどにも足を伸ばした。23年間、日本に拠点を置いていたが、年齢も60歳を過ぎていた。
最初の夫人と別れたこともあり、日本を離れたいと思っていた伊藤さんは、仕事仲間からスペインの避暑地で暮らすことを勧められたが肌に合わず、ブラジルに残っていた荷物の整理などを目的として2000年にサンパウロに来た時、親戚から「ブラジルで仕事しないか」と勧められた。現在の夫人であるテレーザさんの父親に「飲み仲間」として出会ったことも伊藤さんの「第3の人生」の起点となった。
絵画教室で生き生き、悠々自適に

現在、伊藤さんはピニェイロス区のアトリエで日系、非日系を問わず、エアブラシ技術に加えて日本画、墨絵や近代画の技法を週3回教授。卒業生の一部が賞を取るようになり、彼らは現在、デンマーク、アメリカ、メキシコ、日本などで活躍している。伊藤さん自身も各国の国際賞など計104の賞を受賞しており、これまでに世界平和と先人への鎮魂の思いを描いた作品を多数発表。主だった大型作品はサンパウロ州議会と長崎市に寄贈され、展示されている。現在も「他の誰も描かない世界で初めての絵」(2m×2mの大型作品)を制作中だ。
また、伊藤さんにとって近年、思いがけず嬉しい出来事が続いている。数年前には、以前絵画を教えていたブラジル人の男性が65年ぶりに連絡を取ってきた。その男性は長年にわたって広告代理店の仕事を続けてきた。現在は年金生活者として暮らしながらも、伊藤さんが教えた技法を駆使して好きな馬の絵を描いているという。
また、今年1月に55年ぶりに訪ねてきたのが、伊藤さんがブラジルに来た当初に空手を教えていた男子生徒だった。彼は、ある自治体で市長も経験したことがあり、その母親がハチドリが好きだということで、母親とハチドリを一緒に描いた絵を今年3月頃に寄贈した伊藤さん。「良い行いをしていると、良いことが返ってくる」と言いながら、思いがけない再会の連続に自身も驚いている。

毎月最終日曜日にはサンパウロ市内のカラオケ・レストランにテレーザ夫人と出かけ、気の合った仲間たちと会うことも楽しみにしている。生徒に教えながら、自分の作品づくりに打ち込む伊藤さん。米寿を迎える今も日々、活動している。