宗成は日本では、早稲田国際学院に在学中、一九四四年、学徒出陣で海軍に入隊。南太平洋を転戦中の一九四五年、フィリピン沖で艦が敵潜水艦に撃沈され、戦死。二十五歳。
付記すれば、この兄弟にはジャイメという弟がいた。彼は、戦死はしなかったが、出征している。
一九四四年、海軍航空隊に入隊。輸送船で南方に向かう途中、米機に撃沈された。二、〇〇〇人が漂流、五〇〇人が救助された。ジャイメは幸いにして生還、一九五一年ブラジルに戻った。
一九七六年、沖縄を訪れ、摩文仁の戦死者慰霊塔に刻まれている筈の兄宗弘の名を探し焼香するためだった。が、その名はなかった。さらに僻地の塔も訪れたが、同じだった。ジャイメは呆然と立ちつくしたという。
一九八八年サント・アンドレーの自宅で寂しく世を去った。
一九三九(昭14)年。サンパウロの斎藤ジュリオ行雄は、十六歳で家族とともに渡日。
一九四三年、早稲田国際学院に在学中、横須賀第二海兵団に入隊。
一九四四年、南太平洋の激戦地トラック諸島エビゼイ島で戦死。同島守備隊の一兵士として、上陸してきた絶対優勢な米軍に突撃、玉砕した。
その少し前、内地に戻る知人に家族宛の手紙を託した。便箋六枚にビッシリ書かれていたが、すべてポルトガル語であった。二十一歳。
なお内山本は、これとは別に、日本生まれの一人も紹介している。
愛知県人高須孝四郎は、一九三一年九歳の時、兄の居るマリリアへ家族と共に移住した。その兄は、徹底した忠君愛国精神を彼に吹き込んだ。
一九四一年、孝四郎は十九歳で姉まきと帰国。海軍航空兵を志願。一九四五年、終戦の六日前、特攻隊員として出撃、戦死。二十三歳。
なお、馬場本、内山本とは別に、次の様な出征兵士の話が、発掘されている。
戦後、東南アジア各地に残留した日本兵が多く居た。その中に、サンパウロ生まれの坂井勇という人がいた。一九八五年になって日本で報ぜられ、それが同年十月九日のサンパウロ新聞によって紹介された。
一九四〇年、二十三歳のとき、家族で日本に一時帰国・渡日した。が、開戦でブラジルに戻れなくなった。
その後、召集されて朝鮮、マレー、シンガポールと移動・転戦、インパール作戦にも従軍した。
戦後はビルマの民族解放闘争に身を投じた。戦闘が一段落後は、そのまま残留、現地の女性と結婚した。
右の報道の時点では、タイで生活していた。「ブラジルにも行ってみたいが、金がないからな」と話していたという。
別筋からの話では、坂井はその後、ブラジルを訪れたそうである。
また、二〇一〇年九月九日のサンパウロ新聞に、ロンドリーナ在住の安中裕(84歳)という人の話が掲載されている。安中は一九二八年、家族とともに移住した。当人は一歳であった。
一九三八年の日本語学校閉鎖で、父親が日本に戻ることを決意、一家は引き上げた。
一九四五年、満州で召集を受けて入隊、シベリアに抑留された。
一九四八年帰国。三年後ブラジルに戻り、後に生活の都合上、帰化した。ところが、その帰化が禍、日本政府のシベリア特措法による一時金の支給対象から外された。
以上は筆者が、入手できた資料の範囲内での事例である。これ以外に、無数の出征兵士、戦死傷者がいた筈である。
二種類の出征(下)
次は、ブラジル軍の兵士となり、イタリア戦線へ送られた人々である。
彼らはブラジル生まれでブラジル国籍を所有していた。
適齢期になった時、召集あるいは志願によって入隊、一九四四年から翌年にかけて出征した。
ブラジルは連合軍に属し、同時期、イタリア戦線に二万五、〇〇〇名の兵士を送った。
といってもイタリアはすでに降伏しており、戦った相手はドイツ軍であった。
一資料によれば、ブラジル軍の内、日系兵士は四十数名であった。
戦死者は全体で四五一名、日系は一名だった。
その一名の戦死者に関しては次の様な奇談がある。
筆者は先に、ブラジル軍の兵士となりイタリア戦線へ送られた者は、ブラジル生まれでブラジル国籍を所有していたと書いた。
が、この、ただ一人の戦死者は、おかしなことに、日本生まれの生粋の日本人であった。東野重信という。前章でクリチーバの東野光信という人を紹介したが、その実兄である。