その時に、これは、当時そこに居った日本人として忘れてはならないことなのですが、タピライの在るピエダーデの警察署長様が日本人を守ってくれたのです。
お名前は忘れてしまって、どうしても思い出せませんが、その方が、不幸にして敵性国人になってしまったが、日本人…(略)…は勤勉で正直で、本当にブラジルのために働いた人たちですから、少しでも迫害する様な警察官が居たら、即座に辞めさせる、と発表されたんです。
それで、もう、日本人は大切にされて、下っ端の巡査なんかはビクビクしていました。
他所では随分迫害があったようですが、私たちタピライに居った日本人は、何の被害も受けることなく、自由に行動することができました。
それで日本人会がお礼をしなければ、と。何か御上げしたい、と言ったんですが、絶対に受取らない。
子供さんが亡くなられて、養子が一人、幼いのが居られて、それで日本人会で何か買ってあげた。日本品の何かを。そしたら、それは受け取られたということです」
ただ『移民四十年史』(七章参照)によると、ピエダーデでは、一九四五年五月、邦人八〇人が集会を開いて逮捕されサンパウロ送りになったという。(集会は禁止されていた)
その時の署長が女性Yの話に出てくる署長と同一人であったかどうかは不明である。
サンパウロ市在住の川村久賀須という老人(二〇〇九年現在九十二歳)は、筆者にこう語っている。
「戦時中は、ビアジャンテ(行商人)をしていた。ベロ・オリゾンテで、サルボ・コンヅット(旅行許可書)を所持していたにもかかわらず、警察に引っ張られた。
十日ほど留置された。警察の幹部の一人は、私をリオのイーリヤ・ダス・フローレス(前章参照)へ送るとまで言った。が、もう一人の幹部が言い争いまでして、それを止めさせ、私を釈放してくれた。
最初、所持金を取り上げられ、戻っては来ないだろうと覚悟していたが、これも戻ってきた」
前章で閉鎖に追い込まれた暁星学園の話が出たが、やはり私立学校として、邦人の娘たちを教育していた赤間学院(通称)や日伯実科女学校は、日本語教育を戦時中も続けることができた。視学官が理解ある態度をとってくれた、という。
赤間学院は、授業は午前中はポルトガル語でやったが、午後は日本語だった。が、視学官は黙認していた。
一度だけ閉鎖されかけたが、急遽、別法人を設立して切り抜けた。
日伯実科女学校では、視学官が「日本語教育を継続していることは知っているが、日系ブラジル人を立派に育て、日本文化をブラジルに導入するという目的であるから」と見逃してくれた。
ブラジル人だけではなく米国人が、日本人を保護したという話もあった。
リンス(サンパウロ州中西部)に米国系の中学校があって、校長は米国人であった。生徒の中には日本人も多かった。
戦争が始まった時、その校長は全校生徒を集めて、こう訓示した。
「戦争が始まったけれど、我々は仲良くやらねばならない。日本人だからといって退学する必要はない」
その生徒だった人の思い出話である。
戦況悪化
戦況は、枢軸国にとって悪化していた。
半田日誌。一九四四年。
「二月二日 (訪問した)翁長さんのところへ、イタリア人の女の人が訪ねて来ていたが、やっぱり戦争がすんだらイタリアへ帰ると言っていた。
『今、サンパウロでは、イタリア人はノン・プレスタなんですよ。降伏しましたからね。ポーブレ・イタリア。でも、私はイタリアへ帰りたい。そして、この娘にも、イタリアへ行ってから、ムコさんをさがしてやる、と言っているんですよ』と翁長さんの奥さんと話していた」(イタリア人の女性は十七歳の娘を連れていた)
「七月八日 日本人でも敗戦論者がいるそうだ。某々の名前が噂にのぼる。だまっておればよいのに、くだらない先見の明を誇りたがる者もいるものだ」
「七月二十日 昨日は東條内閣総辞職の報あり…(略)…さて、これは時節柄、どうしたことか、と一寸不安になった」
「七月二十八日 その後、ドイツの形勢は面白くない…(略)…戦線では後退に次ぐ後退」(つづく)