ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(160)

 資産凍結に関しては、下元は直ちにフェラースを首都リオに出張させた。政府に交渉、凍結令の対象から外して貰うためである。
 下元は運が良かった。というのは、この時、六章で記したリオ郊外での植民地建設で知己になったフェルナンド・コスタ農相が、未だその職にあったのである。
 フェラースは同農相に、
 「組合業務、特に農産物の取引にまで一々干渉されたら、組合が機能しなくなり、サンパウロ市民への食糧供給に大きな支障が生ずる。
 コチアは日本の資本ではなく、この国に居住する移民の出資つまり内資による組合である」
 と強調、凍結令の対象外とすることを請願した。
 農相は「至極もっともである」と、政府内でその様に図り、組合を対象外とすることに成功した。
 この措置は他の日系産組にも適用された。
 これは大きかった。日系産組は救われた。当時の邦人の職業は殆どが農業であり、その多くは産組に属していた。
 もし請願が認められていなかったら、日系社会への影響は巨大であったろう。
 資産凍結令の他に、もう一つ難題があった。
 例のリスタ・ネグラである。リスタにはコチアの名も入っていた。監査官が送り込まれること、役員の内国人化を迫られることは必至であった。
 これについては、下元はフェラースの助言で、コチアへ送り込まれる監査官の候補者を内々に、政府側に売り込んだ。
 送り込まれてきたのは、農務省の職員と陸軍省の主計大尉で、フェラースの友人であった。
 また、日本人の役員(理事三人、監事三人)は、率先して全員辞任、後任にブラジル国籍者を据え、自分たちは、その補佐役に回ることにした。
 理事長職はフェラースに委嘱した。
 さらに下元はフェラースと相談しつつ、ほかにブラジル人の理事二人と監事三人を人選、新役員会を構成した。自分たちで選んだのだから、当然二人が見込んだ人物であった。
 つまり下元とフェラースは、政府側が押し付けてくるのを待つのではなく、先手をうって、自分たちが操縦し易い人間を、監査官や役員に据えたのである。 
付記すれば、理事長の職をフェラースに委嘱した時、コチア史上に残る有名な逸話が生れた。 
 フェラースは、この役を引き受けるべきかどうか迷った。ブラジル社会には(前章で触れた様に)米英の策動で反日感情が盛り上りつつあった。日本人のために働くということは、自分も、その感情の対象になることを意味した。
 といって断れば、下元たち友人を苦況に追いやることになる。そこで彼は尊敬していた母親に相談した。対して母親は、こう答えたという。
 「それが、苦況にある友人たちを助ける所以なら、断固として引き受けヨ」 
 この頃の欧州系の良質な家庭には、昔の騎士道精神が残っていたのであろう。
 フェラースは三十三歳、下元は四十三歳であった。
 なお役員をブラジル国籍者に代える時、下元が監事の一人に据えたのが、コチアの創立組合員の息子で、ブラジル生まれの井上ゼルヴァジオ忠志であった。   
 彼はまだサンパウロ法科大学の学生だった。数年後に理事、次に理事長(後年、会長と改称)となり、長くその任を務める。普通、ゼルヴァジオと呼ばれた。
 コチアの反撃には、次の様な話もあった。
 開戦直後、サンパウロの米国総領事が、コチアに対するガソリンの供給を、関係機関に圧力をかけて止めさせた。
 ガソリンは、すでに配給制になっていたが、それを全面的に停止させたのだ。
 ガソリンが無くては、組合員の生産物を市場へ輸送できないし、営農資材を組合員へ届けることもできない。
 この時、下元は、
 「ヨシ、彼らがかかる理不尽な処置をとるなら、我々は出荷を止めるべきである。ガソリン配給停止などという無茶をして困るのは、サンパウロ市民である」
 と、ゼルヴァジオを敵地である米総領事館に行かせ、総領事にその非を説かせた。 
 この時は、出荷を止めるまでもなく、ガソリン不足から、コチアの貨物自動車が動かなくなり、農産物の市場への入荷量が激減、市民の間で大問題化した。
 コチアの出荷量は当時、それほどの比率を占めていたのである。(つづく)

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