やはり危機感を伝えているのがツッパンの代表で前出の岡崎司三が、
「(自分たちと)警察トノ関係ハヨロシイ 斃レルマデヤル 最后ノ覚悟ダ」
と、激しい言葉を使用している。
対して、
「信念派ヲ刺激シタクナイカラ穏健策デ行キタイ」
という地域もあった。バウルー、ポンペイア、キンターナである。地元マリリアも、それに近かった。
いずれも戦勝派の勢力が圧倒的だった所である。
なお、信念派とは、前章で記したが、戦勝派の別称である。
敗戦派が、優位に立っている地域もあった。
ガルサは、すでに認識運動の活動家が臣道連盟の切崩しに成功しており、同地の代表は、
「警察モ頼リニナラヌ…(略)…バストスノ如キ事件ガ更ニ…(略)…起ラン状況ニアル時 各位ガ強力ナル方法ヲトラン事ヲ望ム」
と、他地域にハッパをかけている。
ドアルチーナも、
「六割以上ハ認識ナシオレリ 臣道聯盟ト関係アル人ハ町デハ二名クライ 旧日本人会ヲ復興シテ他ヨリ入ルデマ・ニュースヲ完全ニ拒否シテイル植民地モアリ ドアルチーナノ今日アルハ自然ニアラズ 努力ノ結果デアル 始メニ捨テテオケバ他ノ地域トオナジデアッタロウ」
と強い語調で、これも他地域の奮起を促している。
これ以外に、この集会に出席できなかったルセッリア代表の、
「現在七名ヨリ認識者ナク ○○青年会トイフモノガ臣道聯盟ト連絡 ソノ支部ノ如キ態度 同地署長ハ之ニ操縦セラレ 判事 検事等ハ日本人ノ行動ヲ苦々シク見テ居ル 七人ノ人々ハ迫害ヲ恐レ伯国ノ法律ノ保護ヲ求メタキ意向」
というメモも、披露された。
○○は原文の文字が読み取れぬ部分。署長は警察署長のことである。
集会の内容は以上であるが、溝部事件は、当時、臣道連盟がやったという説があった。溝部の弟などはそう信じて、サンパウロの藤平正義に知らせている。
なお、襲撃者としては、翌年になって山本悟という青年が自首して出た。二十七歳であった。
この溝部事件、発生時点では、日高や山下は知らなかったという。彼らがサンパウロへ移動した後だったことになる。
が、地元に残った押岩は知った。
「そうこうしている内に、山本悟が単独で溝部をやった。やったのは誰なのか表向きは不明だったが、ワシの耳には入っていた。
山本は農業者で真面目で好男子だった。臣道連盟員ではなかった。以前から我々と同じことを憂えていた。山本は一人で決行した。一人で考え一人で…。
そのことに感嘆したが、これで警戒がきびしくなるだろうから、サンパウロへ行った連中は、早くやらんと誰もやれなくなるとワシは心配していた」
付記すれば、溝部事件に関しては、本稿の開拓前線編『ドラマの町バストス』で詳しく記したが、襲撃者には別人説、動機にも別説がある。
DOPSに食い込む
右のマリリアでの集会の翌日、サンパウロで山本喜誉司ら終戦事情伝達趣意書の署名者や野村忠三郎、藤平正義たち認識運動の実務の中心人物が会合した。
バストスで起きた溝部事件を検討するためであった。
ほかに石川文夫、森田芳一の二人が招かれて出席した。
石川はサンパウロ産業組合中央会の幹部職員だった。中央会は傘下の組合が各地にあり、情報収集や連絡に便利だった。
森田については前章で触れた。中立国スエーデンのサンパウロ領事館の日本・日本人権益保護部の仕事をしていた。日本政府との連絡の下、認識運動を推進する役割を期待できた。
席上、二人は協力を求められ、承諾している。
そして藤平、森田が州政府相手の交渉を担当することになった。ポルトガル語を自由に操れるのは、この二人くらいしか居なかった。同年輩でもあった。
二人は、ブラジル軍事審判所長官のシルヴァ・ジュニオール将軍の仲介で、州政府公共保安局の長官と会った。
さらに同局傘下のDOPSの幹部と接触した。
以後、二人はここに自由に出入りするようになる。直結したのだ。
戦勝派、特に臣道連盟との戦いに警察力を利用しようとしていたのである。溝部事件は、臣道連盟の犯行と思い込んでいた。
藤平は戦時中、DOPSに拘引・留置されたことがあった。今度は、そのDOPSと組んだのである。並の人間にはできぬ芸当だ。
さて二人は、何をしたか?
取り敢えずは、臣連に関する情報提供であった。
三月十六日、DOPSが森田から聴取した参考人調書の中に、次の様な部分がある。(つづく)