2日を第2独立記念日に=ルーラ大統領が法案提出

サルバドールの7月2日文化パレードに参加したルーラ大統領(Foto:Ricardo Stuckert / PR)
サルバドールの7月2日文化パレードに参加したルーラ大統領(Foto:Ricardo Stuckert / PR)

 ルーラ大統領は1日、7月2日をブラジルの「第二の独立記念日」として国家的に制定する法案を連邦議会に提出した。1823年7月2日、北東部のバイア州において地元独立派勢力が、植民地宗主国ポルトガル軍を完全撤退させた歴史的意義のある日とされている。該当の日付は、すでにバイア州では州祝日に定められており、ルーラ大統領は本法案を通じ、ブラジル全体に歴史的意義を広く浸透させることを目指していると2日付CBN(1)は報じている。
 

ブラジル独立戦争の英雄マリア・キテリア(Domenico Failutti, via Wikimedia Commons)
ブラジル独立戦争の英雄マリア・キテリア(Domenico Failutti, via Wikimedia Commons)

この日付は、ブラジル独立が正式に宣言された1822年9月7日の約1年後にあたる。ペドロ王子(後の初代皇帝ペドロ1世)はサンパウロ市イピランガの丘で独立宣言を行なったが、当時のサンパウロ市は辺境の地に過ぎなかった。ポルトガル勢力は北東部を中心に依然各地に駐留し、国家全体が統一されていたわけではなかった。実際、国内最後の植民地であった北部パラ州がブラジル帝国に参加表明したのは1823年8月のこと。
 なかでも、バイア州は独立戦争において最も激しい戦闘が繰り広げられた地域だ。その理由は、バイア州サルバドールが、ポルトガル植民地時代のブラジル最初の首都であり、総督府(Governo-Geral)の所在地として強力な軍隊が置かれていたからだ。1763年にリオへ首都が移るまでの約214年間、植民地統治の中心地として機能していた土地柄だ。
 そんなバイア州では1822年2月頃から、ポルトガル軍と独立支持派の間で武力衝突が相次ぎ、州内は局地的な戦争状態に突入。最終的に1823年7月2日に地元の独立勢力がポルトガル軍を完全に撃退し、同州における実質的な独立を勝ち取った。この戦いは、ポルトガル本国の支配に対するバイア州民の強い反発の象徴であり、当時の住民の不満は極めて深刻だった。
 ポルトガル軍新司令官マデイラ・デ・メロの着任以降、支配体制が強化され、州都サルバドールでは民衆と駐留軍との間で暴力的な衝突が頻発。住民の反発は日を追うごとに激しさを増していった。
 こうした独立闘争の中で特筆すべき人物が、女性兵士マリア・キテリアだ。1822年、父親から軍への参加を禁じられた彼女は、男性の服装をまとって身分を隠し、密かに独立軍に加わった。彼女は規律正しく、勇敢な兵士として数々の重要な戦闘に参加し、その正体が明らかになった後も、その貢献が高く評価され、軍に留まることを許された。
 戦闘における卓越した貢献により、後に皇帝ペドロ1世より勲章を授与されるなど、バイア独立戦争の象徴的英雄として後世に語り継がれている。彼女の存在は当時の女性に課された社会的制約を超えた勇気と献身の証であり、今日でもブラジル各地で広く敬愛されている。
 1823年7月2日にはバイア州独自の憲法が制定され、同州独立の意志が法的にも示された。勝利を祝し、兵士たちはサルバドール市内を行進し、現在「7月2日広場」と呼ばれる地に到達した。この伝統は今日まで続き、毎年「文化パレード」として盛大に行われている。行進は独立軍への敬意と感謝を示すとともに、独立の記憶を継承する地域文化として定着している。
 今年はルーラ大統領自身も出席し、バイアにおける独立の意義を国家的文脈の中で再評価する姿勢を明確にした。大統領は「バイアはブラジル独立の完成を実現した州だ」と述べ、地域住民と共にこの歴史的節目を記念。「独立はペドロ1世が1822年9月7日に宣言したことを尊重しつつも、真に独立が確立されたのは1823年7月2日である」と発言し、バイア州民が果たした決定的な役割を称賛した。

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