商社・拓殖以外では、リオに横浜正金銀行があったが、一九四五年まで業務を継続した。同年七月、それを終了した。(その前月、ブラジルが日本に宣戦布告をしている)
なおアマゾンでは、パラー州での鐘紡の子会社南米拓殖の開発事業は、既述の様にうまく行かなかった。僅かに貿易事業を継続していたが、開戦で会社の資産は殆ど政府に接収された。
アカラ植民地は監査下に置かれた。
アマゾニア州のアマ産は接収された。
進出企業以外では、邦人が作った組合や商店、工場がサンパウロ(市)ほかに幾つかあった。
組合については後で記す。
商店は蜂谷商会、小西商会、破魔商会、大原商会、そして工場はシャー・ツッピー、シャー・リベイラなどである。
蜂谷商会は創業後、店主の吾輔を追って、日本から来た弟の専一が経営に加わり、この頃、兄はリオで弟はサンパウロで営業していた。
これらも夫々、様々な制約を受けた。裏工作をして事業を続けた所もあれば、それをせず閉業したところもある。
医療施設、団体も受難
経済活動以外の事業でも、法人のそれの多くは、似たような受難ぶりとなった。
医療施設ですらも、回避できなかった。
四章で記した日本病院は、長い歳月をかけて一九三九年に完成した。が、僅か数年で、派遣されてきた監査官の管理下に置かれた。
日本人の医師、職員の多くは去った。残留者は僅かであった。
カンポス・ド・ジョルドンの結核療養所は、その後、法的には日本病院の下部機関になっていた。ためにブラジル人の支配人が乗り込んできた。
これが、お粗末なテレビ・ドラマの悪役のような男だった。所長以下、主だった職員を解雇あるいは格下げした。掃除夫に落とされた者もいた。
皆、辞めて行った。若い職員が二、三人残っただけだった。
さらに支配人は「金のない者は、山へ入って松の実でも拾って食え」などと暴言を放った。
挙句、患者の家族から届けられる手紙を開封、中に現金が入っていれば、抜き取るという始末。
この横暴に我慢ならず、結核患者たちが次々と退院して行った。
堪え兼ねた職員が、上部機関の日本病院の監査官に訴え出た。幸いにして、支配人は解雇された。
邦人の各種団体は、大抵自ら閉鎖するか、閉鎖を命じられた。例えば前記の蜂谷専一は、同志たちと一九四〇年、日本商業会議所をつくっていたが、閉鎖させられた。
この会議所は日本からの商社、地元の商店、個人の事業家が参加、約五〇会員から成っていた。
迫害に毅然と対処
かくの如くで、日系社会は、前章を含め、譬えていえば、大戦によって発生した大津波に呑み込まれ、揉みくちゃになっていた。
しかし、誰も彼もがやられっぱなしになっていたわけではない。中には毅然と対処した気骨ある人間もいた。
岸本書は、その幾つかの事例を紹介している。(岸本書については前章参照)
その一。
サンパウロ市内の高級住宅街を、卵を売って歩く一日系女性がいた。
日本の対米英開戦の翌日、顧客の英国人宅の門口で、女主人から口汚く罵られた。女主人は日本の宣戦布告なしの開戦を怒っていた。
対して、卵売りの女性は、
「米英が蒋介石をけしかけて日本と戦争させてきた。今度の開戦は、それが招いたもの。戦争は国と国がしているもの。人と人、特に女性の間ではもっと穏やかに」
とポルトガル語で反論、少しの取り乱した様子もなく、静かに立ち去った。それを見ていた近所の人々が、口々に誉めそやしたという。
その二。
日本陸軍の退役大佐脇山甚作(六章参照)が、開戦の翌年三月、地元バストスの警察から出頭を求められた。出頭すると拘束され、一ヵ月以上かけて取調べを受けつつツッパン、バウルー、サンパウロと移送された。州警察の末端から上へ上へと送られたのである。
留置中、大佐は沈着、剛毅な姿勢で刑事たちを威圧した。
サンパウロでは、下級警官から拳銃を突きつけられたが、静かに相手の瞳の動きをジッと睨んでいた。
また取調べに当った課長に凛と
(続く)