連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第77話

 この旅に参加した銀婚組のコチア青年は五十才前後の働き盛りで、事業に大分余裕の出来た連中だった。ならば、私共もその余裕組に入るのかな?
 コチア青年銀婚の行事としては、この北伯旅行の前年の一九八五年に、移民三〇周年記念行事の一つとして、銀婚組訪日団を日本に送り、今までお世話になった日本の関係機関へのお礼の旅があった。この旅はそれぞれの妻に対して「妻よありがとう」を意図した旅でもあった(総勢四十三名)。私共はこれには参加できなかった。

    八〇年代の世界・日本・ブラジル・日系社会の動き

 コチア青年の記念誌の資料から、この年代のブラジル、日本、世界の出来事を少し書いてみよう。
 一九八四年度のブラジルは軍政のフィゲイレード大統領の下で二〇〇%を越すインフレが続いていた。経済混乱、社会不安が増大し各地で大統領の直接選挙を求めるデモ、集会が起きる。政府はハイパーインフレによりモラトリアムを宣言。
 一九八五年三月十五日、国民待望の民政がタンクレード・ネーベス大統領により発足したが、四月二十一日に急逝。翌日にジョゼ・サルネイ大統領就任。この頃は日伯のセラード開発が盛んで、プロデセールとかバダップ計画など日本からの資金に依るものが進行中であった。
 一九八四年の十二月十一日には私を含めて、四〇名のコチア青年が、バレイラス・セラード地帯を視察した。その頃、コチア青年グループがミナス州にパラカツ農牧会社を設立、山口節夫が代表となる。コチア産組も戦後移住者を対称に、バイア州バレイラスに二万ヘクタールの団地を造成することを発表、移住が始まる。私もこれに参加したかったが、資金力の不足であきらめた。でも、これで良かったのである。この事業に参加したほとんどのコチア青年は失敗してサンパウロに引き上げてきたのである。
 サルネイ政府はインフレ退治として、新クルザード計画を発表、八ヶ月ぶりにモラトリアムを解除、IMFに復帰した。その後八〇年代に数回に及ぶインフレ対策を行ったが、何も効果は出ず、インフレは益々激しくなり、一九八八年にはついに一〇〇〇%を越すまでになった。この頃、政府は財政改革の一つとして、プラーノ・ブレッセルを発表、民営化を進める。八五年頃には日系人の日本への出稼ぎ現象が始まる。
 日本はブラジルとは反対に景気が良かった、バブル経済であった。その頃、NHKの「おしん」がブラジルでも人気であった。

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