特別寄稿=中南米の歴史的4大悲劇=サッカーW杯よもやま話=桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)

 FIFAワールドカップ・カタール大会(以下W杯と略)では、日本チームの活躍で日本国内は大いに盛り上がった。本稿では、W杯にまつわるいくつかのエピソードやその他の話題について紹介する。

《1》ラテンアメリカのサッカーにまつわる四つの悲劇的エピソード

 日本のサッカー界では「ドーハの悲劇」という言葉を頻繁に耳にする。要するに、日本の初めてのW杯出場がかかった1994年のFIFAW杯アメリカ大会のアジア予選において、それまで1位だった日本が、最終第5節のイラク戦での終了間際に得点を許し、引き分けとなり、得失点差で韓国が出場権を得たケースである。
 しかしながら冷静、客観的にみると、この種の話は、世界のサッカー界ではよくある話だと言える。日本代表も近い将来ベスト8を目指すというのなら「ドーハの悲劇」という他人事のような名称ではなく「ドーハの油断」と名称変更をしたほうが良いのかもしれない。
 その点、ラテンアメリカで起こった下記の四つの悲劇的エピソードははるかに深刻な話である。

1)マラカナンの悲劇

1950年7月16日、FIFAW杯ブラジル大会の優勝が決まるブラジル対ウルグアイ戦(Brazilian National Archives, Public domain, via Wikimedia Commons)

 時は1950年7月16日、FIFAW杯ブラジル大会での出来事である。17万3850人の観客で埋め尽くされたリオのマラカナン・スタジアムでの優勝が決まる決勝リーグ第3戦、ブラジルとウルグアイの試合が行われた。
 後半最初に、ブラジルが先制し、ブラジルの勝利かと思われたが、後半21分にウルグアイのフアン・アルベルト・スキャフィーノ、34分にギジャがゴールし、ブラジルが敗戦したというストーリーである。
★会場は静まりかえり、2名がその場で自殺、2名がショック死、20名が失神したと伝えられている。
★ブラジルチームは、白のユニフォームで戦ったが、この事件以降、白を避け、現在のカナリア色のユニフォームになった。
★当時ブラジルには人種差別が残っており、黒人3名に怒りが向けられた。とりわけブラジルのキーパーのモアシール・バルボーザは死ぬまで「疫病神」扱いされたという。
★この時、9歳だったペレが、落ち込んだ父親を「悲しまないで。いつか僕がブラジルをW杯で優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードはよく知られている。ペレは、2022年12月29日、82歳でこの世を去った。ブラジルを3度のW杯優勝に導いたまさに「サッカーの王様」であった。
★ウルグアイ側のエピソードとしては、ブラジルに先制された後、キャプテンのオブドゥリオ・バレラがチームのメンバーを集め、「勝つときが来た」と鼓舞したことはよく知られている。
★この事件は、マラカナンの悲劇、ポルトガル語では「Maracanaço」、スペイン語では「Maracanazo」と呼ばれている。

2)ミネイロンの悲劇

2014年「ミネイロンの悲劇」の試合で、ミロスラフ・クローゼと競り合うダヴィ・ルイス(Marcello Casal Jr/Agência Brasil, via Wikimedia Commons)

 時は2014年7月8日、ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンテ市にある「ミネイロン・スタジアム」で行われたW杯ブラジル大会の準決勝戦で、ブラジルがドイツに1対7という屈辱的大差で敗れた話である。
 「マラカナンの悲劇」が起こった1950年ブラジル大会に次ぐ、2回目の母国での開催であった。この時は、ネイマールが脊椎を骨折し、残り試合の出場が不可能となり、キャプテンのチアゴ・シウヴァが累積警告で出場不可という不運が重なった。優勝が期待されたが、前半だけで5点を奪われ、しかも4分で4失点を重ねる有様であった。
★試合後ドイツ・サポーターの身の危険を確保するために、英語とドイツ語で、ドイツ・サポーターはすぐにスタジアムを出ないで留まるようにとのアナウンスが流れたという。
★試合終了後、ブラジル各地で暴動が発生、サンパウロやリオ・デ・ジャネイロでは略奪行為が行われた他、サンパウロではバス20台が放火された。ベロ・オリゾンテ市内では8日夜、一部のファンがブラジル国旗を燃やしたり、暴徒化した数十人が道路を封鎖したりするなどした。
★翌日の主要紙は、こぞってブラジルのセレソンや監督のフェリポンを厳しく非難した。グローボ紙の見出しは「恥、屈辱」「ブラジルは殺された」、フォーリャ・デ・サンパウロ紙の見出しは「歴史的屈辱」であった。
★大きな傷跡を残したと言えるが、さすがブラジルで、2016年夏のリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックでの男子サッカー決勝で再び両国が交えることになった。1対1のままPK戦になり、5人目のドイツ選手が失敗、5人目のネイマールが成功し、見事優勝を飾った。
★この事件は「ミネイロンの悲劇」「ミネイロンの惨劇」と呼ばれており、ポルトガル語では「マラカナンの悲劇」に因んで「Mineiraço」、スペイン語では「Mineirazo」と呼ばれている。

3)サッカー戦争

 時は1969年、7月14日から18日まで繰り広げられた中米のエルサルバドルとホンジュラス間の戦争のことを言う。スペイン語では、Guerra del Futbol(サッカー戦争)とかGuerra de las Cien Horas(100時間戦争)と呼ばれている。
 戦争の原因は様々であるが直接のきっかけは、1970年W杯メキシコ大会の中米予選とされている。メキシコは開催国のため予選が免除され、すでに出場権を得ていたため、初めてのW杯出場を目指す両国にとっては絶好の機会であった。
 第1戦はホンジュラスの首都テグシガルパで6月8日に開催され、1対0でホンジュラスの勝利、第2回戦は6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われ、エルサルバドルが3対0で勝利した。
 例によって、これらの試合前には、相手選手の滞在ホテル前でサポーターが大騒音を出し、相手国選手に睡眠をとらせないようにするとかサポーター同士の争いが見られた。この対戦はプレーオフに持ち込まれ、第3戦は、6月27日に中立地のメキシコシティのアステカ・スタジアムで開催され、好試合の末に、エルサルバドルが3対2で勝利した。
 当時、エルサルバドルの人口は300万人で、ホンジュラスはその5倍の面積を持ち、人口も230万人であった。そのため、エルサルバドル人は土地や米国企業での雇用を求めて、以前より30~50万人がホンジュラスに移り住んでいたと言われている。
 また両国の国境問題やエルサルバドル産の工業製品の流入等の貿易摩擦問題等が重なり、一発即発の状況下にあった。そのような時に、ホンジュラスのアレジャーノ大統領によって、農地改革法(1962年制定済み)が1969年4月に実施されると発表された。
 その内容は、土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求めるというものであった。同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった。
 このような状況下、エルサルバドル政府は猛烈に反発し、予選最終戦が行われる前日の6月26日にホンジュラスとの国交を断絶することを決定した。
 戦争は4日間にわたり、陸軍、空軍の争いになった。その詳細については本稿の目的ではないのでふれない。最終的に両軍に3千人の死者、1万5千人の負傷者が出て停戦の運びとなった。
 7月18日の朝、OAS(米州機構)のガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、停戦にこぎつけた。だがその後の両国の関係は数十年にわたり、貿易取引はなく国境は閉鎖されたままであった。

4)コロンビアのアンドレス・エスコバル選手射殺の悲劇

射殺されたコロンビアのアンドレス・エスコバル選手(See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 時は1994年7月2日の深夜、コロンビアのメデジン市のバルで友人と夕食後、コロンビアのナショナル・チームのキャプテンであったアンドレス・エスコバル選手が、バルから出たところ、暴漢に射殺され、27歳で死亡した。犯人は麻薬のシンジケートに属するカルロス・ムニョスであった。
 1994年のW杯米国大会では、コロンビアは有名なバルデラマ、アスプリージャ、リンコンなどを有し、優勝の一角として期待されていた。エスコバル選手も国内リーグで活躍し、クラブ南米選手権のリベルタドーレス杯の優勝にも貢献した名デイフェンダーであった。大会終了後には、ACミランへの移籍も決まっていた。
 米国大会の予選リーグでは、第1戦でルーマニアに敗れ、第2戦は地元米国との戦いであった。結果は、エスコバル選手のオウンゴールもあり、米国に1対2で敗戦となった。この時、チームはアメリカで解散となったが、代表選手の多くは国民の非難や報復などを恐れて帰国を拒否し、アメリカに留まった。
 しかし、エスコバル選手だけは「あのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と帰国を決意し、母国コロンビアへ帰国した。その結果のこの惨事であった。
 犯人ムニョスは、射殺の瞬間、「Gracias por el auto gol(オウンゴールをありがとう)」と言ったという。この事件の真相は未だはっきりせず、単独犯なのか背後に麻薬シンジケートが存在するのかは判明していない。ムニョスは43年の判決を受けたが、模範囚として刑期を短縮され、11年後の2006年に出所した。
 会期中に起こったこの事件は世界に衝撃を与えた。コロンビアではその後4年間、同選手の背番号2は欠番となった。また日本では、1994年までは、オウンゴールのことを自殺点という呼び名であったが、この事件以降オウンゴールという名称が使用されるようになった。コロンビアでは、この事件のことをアンドレス・エスコバルの悲劇(La Tragedia de Andres Escobar)と呼んでいる。

2.ナショナル・チームの監督の輸出国は?

 日本のナショナル・チームでもオランダのオフト、フランスのトルシェ、ユーゴスラビアのオシム、ブラジルのジーコ等外国人監督を招いたことがある。2022年カタール大会では、決勝リーグ進出の32カ国のうち、72%にあたる23カ国が、前回の2018年ロシア大会では、63%にあたる20カ国が自分たちの国籍の監督を起用した。
 ということは、他の国は外国人の監督を起用したことになる。下記に2大会での外国人監督の起用状況をみると興味深いことがわかってくる。監督の輸出国の内訳をみると、第1位はアルゼンチンで、2大会で6カ国に、2位はスペイン、ポルトガル、コロンビアで3カ国に、5位はフランスで2カ国に、6位はイングランドで1カ国に派遣している。
 不思議なことに、イングランドを除けば、すべてラテンの国である。とりわけアルゼンチン人の監督は断トツで起用されている。サッカー王国のブラジル、ドイツ、イタリア人監督は少なくとも過去2大会での起用はない。サッカーを愛する国民性、明るい性格からラテン系の監督が好まれるのかもしれない。

3.ぺナルティ・ゴール合戦の勝者は?

 ご承知の通り、W杯決勝リーグに入ると90分の前後半、勝負がつかなければ30分の前後半、それでも決着がつかない場合は、ぺナルティ・ゴール合戦に突入する。
 ここでは過去5回のW杯でのぺナルティ・ゴール合戦の勝敗を分析する。ここから先の推測は筆者個人の独断とご理解いただきたい。
①比較的貧しい国が豊かな国に勝つパーセンテージが高い。
 2022年カタール大会では「貧しい国の勝利」4対「豊かな国の勝利」1、2018年ロシア大会では2対1、2014年ブラジル大会では3対1、2010年南ア大会では1対1、2006年ドイツ大会では3対1。5大会の合計では、13対5で圧倒的に貧しい国が勝つケースが多くなっている。
 推測するに、やはりハングリー精神と一族郎党の生活が懸かっていること、ゴールを外すと帰国後のバッシングが恐ろしい等々といった切実感から来るものと思われる。その点豊かな国の選手は精神的に余裕があるものと思われる。
②総じて優勝、準優勝、3位の国は、勢いと運に恵まれ勝利するケースが多い。
 カタール大会のアルゼンチン、クロアチア、ロシア大会のクロアチア、ブラジル大会でのアルゼンチン、オランダ、ドイツ大会のイタリア、ドイツをみるとわかる。
 過去5大会でクロアチアは4回のPK戦すべてで勝利している。この事実をあらかじめ知っていれば、カタール大会での日本もキッカーの選択等で何らかの対策が採れたかもしれない。アルゼンチンもPK戦に強く3勝1敗の成績である。
③日本は2回経験しているがいずれも負けた。日本の選手は経験不足もあり、修羅場やプレッシャーに弱いのかもしれない。今後さらにベスト8まで進む場合、この訓練が必須であろう。
④ヨーロッパとラテンアメリカの戦いでは、ヨーロッパ4勝、ラテンアメリカ3勝とほぼ互角である。

4.スタジアムの大きさとサッカー強い国との関係

 ここでは大きなサッカースタジアムを持っている国とサッカーの強さが比例しているかを見てみよう。
 ウイキぺディアによるとブラジルには4万人以上収容できるスタジアム数は25カ所、3万人以上収容のスタジアムが36カ所存在する。
 一方、アルゼンチンでは4万人以上収容のスタジアム数は14カ所、3万人以上収容のスタジアム数は24カ所である。
 人口大国メキシコの場合、4万人以上収容できるスタジアムは7カ所、3万人以上のスタジアムは20カ所、コロンビアは4万人以上が4カ所、3万人以上が7カ所となっている。
 これらの数字を見るだけで、ブラジルとアルゼンチンがラテンアメリカで最高のサッカー強国であることが理解できよう。もちろん収容能力と国の人口は密接な関係にあることは当然のことである。
 ※【編集部注】ラテンアメリカ協会サイトに初出。スペースの関係で数字などを大幅に省いた。より詳しく知りたい方はこちらへ→出典リンク(https://latin-america.jp/archives/56105

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